第27話 陽菜の兄、隼人の帰還
四月。あの狂おしいほどの熱情と、切ない別れを経験した湊高等学校の校舎を後にして、俺と陽菜は、地元の国立大学の門をくぐった。祝福の紙吹雪のように舞い散る桜の花びらが、これから始まる新しい生活への期待を、否応なく高めてくれる。高校時代とは違う、自由で、そしてどこまでも広大な世界。俺は、ごく自然に、そして当たり前のように、陽菜の隣を歩いていた。
教育学部の新入生ガイダンスが行われる大講義室は、同じように希望と、そして少しの不安を顔に浮かべた新入生たちの熱気で満ちている。俺は、陽菜の、嬉しそうに輝く瞳を見ていると、自分の心もまた、温かい光で満たされていくようだった。
やがて、学部長や教授たちの挨拶が終わり、在校生代表として、一人の先輩が壇上に上がった。
「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。最上級生として、皆さんの大学生活が実りあるものになるよう、心から願っています。教育学部四年の、佐藤隼人です」
その、穏やかで、しかしよく通る声を聞いた瞬間、隣に座っていた陽菜が、俺の袖をくいくいと引っ張った。
「健太君、あのお兄ちゃん、私の兄なの」
「え、マジで!?」
俺は、壇上の先輩を改めて見つめた。身長は、おそらく俺と同じくらい、180cmはあるだろう。染めていない黒髪を、清潔感があるように整えている。誠実で、真面目な印象を与える、爽やかな顔立ち。そして何より、その佇まいや顔の骨格のどこかが、不思議と俺自身に似ているような、奇妙な感覚があった。彼が、陽菜の兄……。四年生という落ち着いた貫禄に、頼れる先輩という印象を強く持った。
ガイダンスが終わり、俺たちがキャンパスを歩いていると、背後から「陽菜!」と、あの穏やかな声がした。振り返ると、そこには、にこやかな笑顔を浮かべた隼人さんが立っていた。
「兄さん!」
「よう。無事、入学できたみたいだな。おめでとう」
「うん、ありがとう! あ、そうだ、紹介するね。こっち、私の彼氏の、山上健太君」
陽菜が、少し照れながらも、はっきりとそう紹介してくれた。俺は、彼女の兄という存在に、緊張しながらも、深々と頭を下げた。
「は、はじめまして! 山上健太です!」
「ああ、知ってるよ。健太君だろ? 陽菜から、いつも話は聞いてる。こちらこそ、よろしくな。まさか、妹と付き合ってくれるとは、思ってもみなかったけど」
隼人さんは、そう言って悪戯っぽく笑うと、俺の肩をポンと叩いた。
「お似合いじゃないか。二人とも、教師になるっていう同じ夢があるんだろ? 俺でよければ、大学のことで分からないことがあったら、何でも協力するよ」
その、あまりに温かく、そして誠実な祝福の言葉に、俺は心の底から安堵した。なんて、いい人なんだろう。俺は、この頼りがいのある優しい先輩に、一瞬で好感を抱いていた。
その日の昼、俺たちは三人で、学生食堂のテーブルを囲んでいた。賑やかな喧騒の中、隼人さんは、大学での授業の取り方や、面白いサークルの話など、俺たちのこれからの大学生活に役立つ情報を、色々と教えてくれた。和やかな会話が続いていた、その時だった。隼人さんが、ふと何かを思い出したように、ぽつりと、実に何気なく、その名前を口にしたのだ。
「そういえば……早瀬って、今頃どうしてるのかな」
その言葉を聞いた瞬間、俺の全身の血が、凍りついた。
心臓が、まるで鷲掴みにされたかのように、激しく収縮する。学生たちの騒がしい声が、急に遠くなる。
「え、兄さん、早瀬先生のこと知ってるの? 先生、私たちの高校にいたんだよ」
俺より先に、陽菜が驚きの声を上げた。
「ああ、知ってるよ。俺と葵は、大学の同期入学なんだ」
隼人さんは、こともなげにそう言った。葵、と。あまりに自然に、下の名前で。俺の頭は、混乱で真っ白になった。
「えっ!? でも、先生はもう卒業されて、教師二年目のはずですけど……」
俺は、かろうじて、その疑問を口にした。すると、隼人さんは「ああ、そうなんだよ」と苦笑した。
「俺、二年の終わりから丸々二年間、海外でボランティアとかやってて、休学してたんだ。だから、葵とは同期だけど、卒業が二年遅れちまっててね。俺がのんびり復学して四年生やってる間に、あいつはもう立派な先生二年目ってわけだ。ははっ、敵わないよな」
辻褄が、合った。全ての矛盾が、一本の線で繋がってしまった。その事実に、俺は戦慄した。早瀬先生と隼人さんは、ただの同級生ではない。同じ夢を語り合い、同じ時間を過ごした、正真正銘の「同期」。俺が決して入り込むことのできない、特別な繋がり。そして、隼人が休学していたという、空白の「二年間」。その時間に、二人の間に何があったというのか。
その日の帰り道、陽菜が隣で楽しそうに話している間も、俺の頭の中は、隼人さんの言葉でいっぱいだった。
二人は、どんな関係だったんだ? ただの、同期? 隼人さんは、先生のことが好きだったのか? それとも、先生が……?
そして、あの、不思議な感覚。隼人さんと俺が、どこか似ているという、あの奇妙な既視感。その偶然が、今や、何か不吉な運命の暗示のように、俺の心に重くのしかかってくる。
俺が、ようやく過去のものとして、美しい思い出として、心の箱にしまい込んだはずのパンドラの箱。その蓋が、今、再び、ゆっくりと開き始めているような、言いようのない不安が、俺の胸を、静かに、そして深く、蝕み始めていた。
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