第25話 卒業
あの夜、俺たちは、決して越えてはならない境界線を越えた。早瀬先生の部屋で初めて結ばれたあの日から、俺たちの間に流れる空気は、以前とは全く違う、深く、そしてどこまでも切ない色合いを帯びるようになっていた。
放課後の誰もいない教室で、二人きりで過ごす時間は続いていたが、そこに以前のような熱狂的な欲望の影はなかった。その代わり、触れ合う指先や、交わす視線の一つ一つに、言葉にならないほどの愛おしさと、そしてすぐそこまで迫った別れの予感が、静かに滲んでいた。
俺たちは、もうただの教師と生徒ではいられない。しかし、白日の下に晒される恋人になることも、許されない。共有してしまった秘密の重さが、俺たちを強く結びつけながらも、同時に、その関係がいかに脆く、儚いものであるかを、絶えず突きつけてくるようだった。三月。卒業という名の、抗いがたい終着点が、刻一刻と俺たちに近づいていた。
先生は、きっと、もう心に決めていたのだろう。
俺の未来を、教師としての自分の矜持を、そして俺たちのこの歪な関係を守るために、彼女は自らの手で、この物語に幕を下ろす覚悟を。
時折、俺の小論文に赤ペンを入れながら、ふと遠くを見つめる彼女の横顔には、言いようのない寂しさが漂っていた。それは、俺の未来を縛るまいとする、彼女なりの最後の優しさであり、そして最後の教師としての務めだったのかもしれない。俺は、その痛ましいほどの覚悟に気づきながらも、ただ気づかないふりをして、残されたわずかな時間を、一秒でも長く彼女の隣で過ごすことしかできなかった。
やがて、運命の日が訪れた。県立湊高等学校、卒業式。
体育館の壇上に立った俺は、卒業生代表の一人として、答辞を読んでいた。マイクを通して響く自分の声が、どこか遠い他人のもののように聞こえる。半年前、この同じ場所で、ただ退屈な日常をやり過ごすことしか考えていなかった自分が、今、こうして全校生徒の前に立ち、未来への希望を語っている。その事実が、不思議でならなかった。
俺は、ゆっくりと会場を見渡した。在校生、保護者、そして、俺たちを見守る教師たちの顔。その、一番端の席に、彼女はいた。
早瀬葵先生。
彼女は、ただ静かに、そしてどこまでも眩しそうに、壇上の俺を見つめていた。その視線が、俺の視線と、ほんの一瞬だけ、確かに交差した。
俺たちの間に、言葉はなかった。しかし、その一瞬の交錯に、俺たちのこれまでの全ての物語が、凝縮されていたように思う。出会い、密約、欲望、葛藤、そして愛。ありがとう。さようなら。そして、いつかまた。
その視線の会話は、誰にも気づかれることのない、俺たち二人だけの、最後の秘密の儀式だった。
式が終わり、生徒たちの喧騒と、保護者たちの祝福の声で満たされた校舎を抜け出し、俺は、桜の蕾が固く膨らみ始めた中庭で、彼女を待っていた。やがて、一人で静かにやってきた先生は、俺の前に立つと、完璧な微笑みを浮かべて、こう言った。
「卒業、おめでとう、山上君。……いえ、健太君」
「……ありがとうございます、先生」
その声は、どこまでも優しく、そしてどこまでも遠かった。
「あなたは、本当に立派になったわ。私がいなくても、もう大丈夫ね」
先生は、続ける。それは、俺がずっと聞きたくなかった、そして、いつか言われると分かっていた、けじめの言葉だった。
「私は、あなたの少年の日の心の中にだけいた青春の幻影だったのかもしれないわね」
幻影。その言葉が、俺の胸を鋭く抉った。違う、あなたは幻なんかじゃない。俺の全てを変えてくれた、唯一の現実だ。そう叫びたかった。しかし、俺はその言葉を飲み込んだ。彼女が、どれほどの想いを込めて、その言葉を選んだのかが、痛いほど分かったからだ。それは、俺たちの高校時代の、あの狂おしいほどに濃密だった関係の全てに、ピリオドを打つための、彼女なりの、精一杯の愛の言葉だった。
俺は、こみ上げてくるものを必死にこらえ、今の自分にできる、最大限の誠実さで、彼女に答えた。
「先生。俺、必ず教師になります。そして、いつか、あなたと対等な立場で、もう一度、あなたの前に立ちます。……その時まで、待っていてくれますか」
先生は、何も言わずに、ただ、涙で潤んだ瞳で、美しく微笑んだ。
俺たちは、それぞれの道へと、歩き出す。今はまだ、教師と、卒業生として。しかし、いつかまた必ず交差する未来を、固く、固く、心に誓って。
俺の、少年時代が、終わった。
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