第19話 陽菜の決意


 私の部屋の学習机の引き出しの奥に、一枚だけ、大切にしまってある写真がある。それは、まだランドセルを背負っていた小学生の頃、近所の夏祭りで撮ったものだ。法被を着て、りんご飴を片手にはにかむ私と、その隣で、口の周りをかき氷のシロップで真っ青にしながら、やんちゃに笑う健太。この写真を見るたびに、私の胸は、甘いような、それでいて切ないような、複雑な痛みで満たされる。

 健太の心が、もう私には向いていないこと。その残酷な現実に、私はもうとっくに気づいていた。彼の視線の先にいるのが誰なのかも、おそらくは、あの新任の美しい英語教師なのだろうということも、悟っていた。その事実を認めたくなくて、一人きりの部屋で、声を殺して何度も泣いた夜があった。悲しみで胸が張り裂けそうになり、いっそ全てを投げ出してしまいたいとさえ思った。

 しかし、それでも、私は健太を嫌いになることなんて、到底できなかった。


 彼の努力は、本物だった。その動機が、たとえ私の知らない、不純な何かであったとしても、彼が血の滲むような努力で、自分の未来を変えようとしている事実は、紛れもない真実だった。その姿を間近で見ていると、私の個人的な感傷など、ちっぽけで、取るに足らないもののように思えてくる。

 私は決めたのだ。この恋が叶わないのなら、せめて、彼の夢を、彼の輝かしい未来を、誰よりも近くで応援する存在になろうと。私の気持ちを押し殺し、彼の教師という夢の実現を、自分の喜びとすることに決めたのだ。

 「好き」の形は、両想いになって隣を歩くことだけじゃない。彼が夢を叶えて、幸せになってくれること。それが、私の幸せなのだと。私は、健気な自己犠牲の理論で、必死に自分の心を昇華させようとしていた。


 しかし、そのためには、どうしても越えなければならない一つの儀式があった。このまま、何も伝えずに彼の隣に居続けるだけでは、私はきっと、いつまでも前に進めない。いつまでも、彼に淡い期待を抱き、その隣で微笑む仮面を被り続けることになるだろう。

 それではダメなのだ。

 私は、私のこの長い、長い片思いに、私自身の手で、きちんと「けじめ」をつけなければならない。

 それは、健太に振り向いてもらうためではない。彼を困らせたいわけでもない。ただ、自分の心を整理し、本当の意味で「友人」として彼の隣に立ち続けるための、私なりの、たった一度の宣戦布告であり、そして降伏宣言だった。


 その日の放課後、私は健太を呼び出した。場所は、いつもの、夕暮れの海が見える、通い慣れた坂道の途中。眼下には、オレンジ色の夕日に染められた街の屋根と、その向こうに広がる穏やかな海。遠くで聞こえる波の音が、まるで私の心臓の鼓動と共鳴しているかのようだった。

 少し遅れてやってきた健太は、不思議そうな顔で私を見ている。私は、震える唇を必死に抑え、息を吸い込んだ。

 「健太君」

 私の声は、自分でも驚くほど、か細く、そして弱々しく響いた。

 「あのね、私……ずっと、健太君のことが、好きでした」

 言ってしまった。一度口から出てしまった言葉は、もう二度と元には戻らない。

 夕日に照らされた健太の横顔。彼の瞳が、驚きに見開かれていくのが分かった。彼の、少し茶色がかったくせ毛が、潮風に優しく揺れている。

 私の瞳から、堪えきれなかった涙が一筋、頬を伝った。

 「ごめんね、こんなこと言って。困らせたいわけじゃないの。ただ……ただ、伝えたかっただけだから。これでおしまいにするから」

 健太は、何も言わなかった。何も、言うことができなかった。ただ、私のこの、あまりに重く、そしてあまりに長い想いの全てを、その全身で、黙って受け止めてくれているようだった。

 夕日が、水平線の向こうに、最後の光を飲み込ませていく。私の、長かった恋が、終わった瞬間だった。

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