第15話 密会の時間


 早瀬先生の自宅マンションのドアの前に立つと、俺の心臓はいつも、期待と罪悪感の入り混じった、不規則なリズムを刻み始める。チャイムを鳴らす指先が、微かに震える。今日、俺はこの部屋で、俺たちの歪んだ関係を根底から揺るがしかねない、一つの爆弾を投下する覚悟を決めていた。

 ドアが開き、部屋着姿の先生が、いつものように穏やかな、しかしどこか含みのある微笑みで俺を迎え入れた。清潔に整えられた部屋、ふわりと香る彼女だけの甘い香り。その全てが、俺の決意を鈍らせようとする。


 ローテーブルを挟んでソファに向かい合って座る。先生が淹れてくれた紅茶の湯気が、二人の間の緊張した空気を揺らしていた。俺は、カップを持つ手が震えるのを必死に抑えながら、意を決して口を開いた。

 「先生……今日は、話があって来ました」

 「なあに、改まって」

 俺のただならぬ気配を察したのか、先生の表情が少しだけ引き締まる。俺は、一度固く目を閉じ、そして、覚悟を決めて全てを話し始めた。

 俺には、小学校からの幼馴染がいること。佐藤陽菜という名前の、とても大切な女の子であること。彼女が、俺と同じ、先生と同じ大学の教育学部を目指していること。そして……おそらく、彼女がずっと、俺のことを一途に想い続けてくれていること。

 俺は、陽菜の純粋な夢を、彼女の健気な献身を、そして図書館で見た、俺の嘘に気づきながらも黙って微笑んでいた彼女の悲しい横顔を、できる限り誠実に、自分の言葉で先生に伝えた。これを伝えることで、先生が俺を軽蔑するかもしれない。この甘美な関係が、今日この瞬間、終わってしまうかもしれない。そんな恐怖に、背筋が凍る思いだった。


 俺の話を、先生はただ黙って、瞬きもせずに聞いていた。その表情は、教師としての冷静さを保ってはいたが、その奥で、激しい嵐が吹き荒れているのを、俺は見逃さなかった。

 陽菜。俺と同じ年の、若く、純粋で、そして何より、俺の隣にいることが社会的に許されている女の子。俺の告白は、早瀬先生の心の中にあった、最も触れられたくないであろうコンプレックスの塊を、無慈悲に抉り出したに違いなかった。自分はもう若くはない。教師という、生徒との恋愛が絶対に許されない立場にいる。この関係は、どこまでいっても日陰の恋だ。それに比べ、陽菜という存在は、あまりに眩しく、そして正しい。

 先生の心の中では、激しい嫉妬の炎が燃え上がっていたはずだ。しかし、彼女は、そのどす黒い感情を、完璧な「教師の仮面」の下に隠しきった。

 「……そう。素敵な子じゃないの、陽菜さんって」

 やがて、彼女は静かにそう言った。その声は、驚くほど落ち着いていた。

 「あなた、その子の気持ちを、ちゃんと考えてあげなさい。そんなに一途に想ってくれる人を、絶対に傷つけたりしちゃダメよ。大切にしなきゃ」

 それは、どこからどう見ても、生徒の悩みに真摯に耳を傾ける、完璧な「大人」であり、「教師」としての助言だった。


 しかし、その時の俺は、もはやただ先生に憧れるだけの、無知な生徒ではなかった。俺の全神経は、早瀬葵という一人の女性の、その些細な変化さえも見逃さないよう、極限まで研ぎ澄まされていた。

 だから、分かってしまったのだ。彼女の言葉が、全て建前であるということが。

 諭すような言葉とは裏腹に、その美しい瞳が、嫉妬と不安で微かに揺れている。固く握られ、膝の上で白くなっている彼女の拳が、その内心の激情を雄弁に物語っていた。俺が陽菜の話をするたびに、彼女の喉が、ごくりと微かな音を立てるのを、俺は聞き逃さなかった。

 この人は、俺に嫉妬してくれている。

 その事実に気づいた瞬間、俺は、罪悪感を感じながらも、言いようのない、歪んだ歓喜に打ち震えた。俺は、この美しい大人の女性の心を、これほどまでに揺さぶっている。俺の存在は、彼女にとって、もはやただの生徒ではないのだ。その確信が、俺の独占欲を甘く満たした。

 葵先生もまた、健太を一途に想う陽菜という存在と、自分自身の教師という立場、そして健太を失いたくないという女としての本能の間で、激しく引き裂かれ、苦悩していた。


 この告白をきっかけに、俺たちの関係は、新たな局面を迎えた。それはもはや、単なる肉体的な欲望や、成績を巡るゲームのような取引ではない。嫉妬、独占欲、罪悪感、そして、そこはかとない愛情。それらが複雑に絡み合い、俺たちをより深く、そしてより危険な場所へと引きずり込んでいく。

 俺は、自分の罪悪感を軽くするために、この告白をしたはずだった。しかし、皮肉なことに、それは俺たち二人の魂を、以前よりもずっと強く、そして抗いがたく結びつけてしまう結果となったのだった。

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