第14話 ふたりの勉強会
受験勉強が本格化するにつれて、俺と陽菜が放課後を共に過ごす時間は、必然的に増えていった。ファミレスのドリンクバーの喧騒の中、あるいは図書館のしんと静まり返った空気の中、俺たちは机を並べ、黙々と参考書と向き合う。それが、俺たちの新しい日常になりつつあった。
陽菜は、俺が本気で五教科全てに取り組むようになったことを、心から喜んでくれているようだった。彼女が時折見せる、俺の成長を自分のことのように誇らしげに見つめるその笑顔は、俺の胸を温めると同時に、鋭い棘となって突き刺さった。俺のこの努力の原動力が、彼女の兄の婚約者候補かもしれない女性との、あまりに不純な取引にあるなどとは、口が裂けても言えなかった。
俺は、陽菜の健気な優しさに触れるたびに、彼女の真剣で美しい夢を知るたびに、自分が巨大な嘘の塊であることを思い知らされる。友人としての彼女への深い情愛と、彼女を裏切り続けているという罪悪感。その二つの感情の狭間で、俺の心は常に引き裂かれそうだった。
その日も、俺たちはファミレスの窓際の席で、夕暮れの光が差し込む中、勉強に打ち込んでいた。俺が数学の難問に唸っていると、不意に、陽菜がペンを置いて、じっと俺の顔を見つめてきた。
「ねえ、健太君」
その声は、いつもより少しだけ真剣な響きを帯びていた。
「今更だけど、どうして急に、そんなに頑張れるようになったの?」
核心を突く質問に、俺の心臓がドクリと大きく跳ねた。来たか、と身構える。彼女の真っ直ぐな瞳から、俺は視線を逸らすことができない。
「誰かに、褒められたいのかなって……。例えば……早瀬先生、とか?」
陽菜は、まるで俺の心を見透かしたかのように、しかし、俺が肯定しやすい最大限の配慮を含んだ言葉を選んで、そう問いかけた。早瀬先生の名前が出た瞬間、俺の手が凍りつき、思考が停止する。本当の理由――あの人とセックスがしたいからだ、などと言えるはずがない。陽菜が差し出してくれた、この「先生に褒められたい」という、いかにも生徒らしい純粋な動機は、俺にとって唯一の逃げ道だった。
俺は、必死に動揺を押し殺し、こくりと頷いた。
「……まあ、そんなとこだよ。先生、すごい先生だから……認められたいっていうか」
それは、嘘ではなかった。ただ、あまりに多くの真実を隠した、姑息な嘘だった。俺の返事を聞いた陽菜は、「そっか」とだけ言うと、少し寂しそうに、しかしどこか納得したように微笑んで、再び自分の参考書に視線を落とした。
その日を境に、陽菜は俺の動機について、何も言わなくなった。彼女は変わらず俺の努力を間近で見守り、成績が上がっていくことを自分のことのように喜んでくれた。しかし、彼女は気づいてしまったのだ。俺の本当の病の正体に。
あれは、学校の図書館で勉強していた時のことだ。俺たちが使っていた閲覧席の大きな窓からは、職員室のある校舎が遠くに見えた。俺は、難しい問題に行き詰まったふりをして、その実、職員室の窓の明かりばかりを、ぼんやりと目で追っていた。あの光の中に、先生はいる。今頃、何をしているのだろう。俺の頭の中は、そんな想いでいっぱいだった。
ふと我に返って隣を見ると、陽菜が、そんな俺の視線の先を、静かに見つめていた。その表情には、もう驚きはなかった。ただ、全てを理解した者の、深い悲しみが湛えられているだけだった。
俺のこれは、単に「褒められたい」などという、可愛らしい憧れなどではない。もっと深く、どろりとした、執着と欲望がないまぜになった「執念」なのだと、彼女はその時、はっきりと悟ったのだろう。彼女は、俺の視線が意味するものを、そしてその視線の先にいるのが誰なのかを、もう疑う余地もなく理解してしまったのだ。
彼女は何も言わず、ただ自分の本に視線を落とした。その、あまりに健気な沈黙が、俺の胸を締め付けた。
陽菜は、俺の心が、もはや自分には決して向くことのない、遠い場所にあることを、完全に受け入れてしまったようだった。悲しくて、悔しくて、胸が張り裂けそうな夜を、彼女はきっと一人でいくつも越えたのだろう。
それでも、彼女は俺の隣からいなくならなかった。彼女は、自分の気持ちを心の奥底に押し殺し、ただひたすらに、俺の夢を応援し続けることを選んだのだ。
それが、たとえ俺の不純な欲望の副産物であったとしても、俺が「教師」という夢に向かって必死に努力しているという事実そのものを、彼女は信じ、支えようとしてくれていた。
ファミレスのテーブルを挟んで向かい合う俺たちの間には、物理的には一メートルもない距離しか存在しない。しかし、その心の間には、決して埋めることのできない、深く、そして静かな溝が、横たわっていた。
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