第13話 夢の共有


 早瀬先生の肌の温もりと、あの背徳的な快感が、俺の全身に、そして魂にまで深く刻み込まれていた。五教科全てで80点以上。その絶望的とも思える高い壁は、しかし、俺にとってはもはや何の障害でもなかった。あの女神のような裸体を、この腕でもう一度抱けるのなら。彼女の全てを、俺のものにできるのなら。俺はどんな試練でも乗り越えてみせる。

 その日を境に、俺の猛勉強の日々が再び始まった。もはや、俺を突き動かしているのは単なる欲望だけではなかった。それは、ほとんど信仰に近い、狂信的なまでの情熱だった。唯斗の部屋、自宅の机、そして陽菜との勉強会が開かれる図書館。俺は、まるで呼吸をするかのように、あらゆる知識を渇望し、吸収していった。


 その日も、俺たちは図書館の、いつもの窓際の席に座っていた。外はすっかり日が暮れ、窓ガラスには蛍光灯の光と、向かい合って座る俺たちの姿がぼんやりと映り込んでいる。静まり返った空間に、ページをめくる乾いた音と、ペンを走らせるカリカリという音だけが響いていた。

 俺が数学の難問に頭を抱えていると、不意に、陽菜が「ねえ、健太君」と、潜めるような声で話しかけてきた。顔を上げると、彼女は少し頬を赤らめ、どこか恥ずかしそうに、しかし真っ直ぐな瞳で俺を見つめていた。

 「私ね、志望校、決めたんだ」

 「へえ、どこだよ」

 「……健太君と、同じところ」

 彼女は、はにかむようにそう言った。

 「地元の国立大学の、教育学部。私も、そこを目指すことにしたの」

 その言葉に、俺は一瞬、思考が停止した。陽菜が教師を目指していることは知っていた。だが、俺と全く同じ大学の、同じ学部を、これほど具体的に志望していたとは、今日この瞬間まで知らなかったのだ。


 陽菜は、俺の驚きを肯定的な反応だと受け取ったのだろう。堰を切ったように、その夢を熱っぽく語り始めた。

 「小学生の時、健太君が私を助けてくれたこと、覚えてる? あの時から、私、ずっと健太君みたいに、強くて優しい人になりたいって思ってた。そして、先生になれば、そんな子供たちをたくさん育てられるんじゃないかなって……。だからね、もし、健太君も先生になってくれたら、すごく嬉しい。将来、同じ職場で働けたら、もっと嬉しいな」

 楽しそうに、未来の設計図を描いてみせる陽菜。その瞳は、一点の曇りもなく、希望の光でキラキラと輝いていた。その純粋で、ひたむきな夢の独白を、俺は真正面から受け止めることができなかった。

 強烈な罪悪感が、ハンマーのように俺の頭を殴りつけた。

 違う。俺は、お前が思っているような、そんな立派な人間じゃない。俺が教師を目指しているのは、早瀬先生とセックスがしたいからだ。先生という夢は、そのためのカモフラージュで、不純な欲望を隠すための口実に過ぎない。

 俺は、お前のその美しい夢を、今まさに汚しているんだ。

 胸が、張り裂けそうだった。陽菜の純粋さが、鏡のように俺自身の醜さを映し出し、容赦なく突きつけてくる。


 陽菜の健気な優しさに触れるたびに、俺は自分がとてつもなく大きな嘘の塊であることを思い知らされる。早瀬先生との、あの甘く爛れた関係を、この一番大切な幼馴染に隠し続けている。その事実が、鉛のように重く俺の心にのしかかってきた。

 「……そうか。陽菜も、同じ夢なんだな」

 俺は、なんとかそれだけを絞り出すのが精一杯だった。声が、自分でも分かるほど震えていた。

 「うん! だから、一緒に頑張ろうね!」

 屈託なく笑う彼女の顔を、俺はもうまともに見ることができなかった。


 その夜、俺は自室のベッドで、眠れずに天井を見つめていた。陽菜の言葉が、何度も何度も頭の中で反響する。もう、これ以上は無理だ。これ以上、彼女を騙し続けることはできない。

 しかし、陽菜に真実を告げる勇気は、今の俺にはなかった。それをすれば、俺は彼女を永遠に失うことになるだろう。

 ならば、どうすればいい?

 暗闇の中で、俺は一つの決意を固めた。

 早瀬先生に、全てを話そう。次の密会の時に、陽菜の存在を、彼女が俺に寄せてくれている想いを、そして、俺が抱えているこの罪悪感を、全て正直に打ち明けよう。

 それが、今の俺にできる、唯一の誠実な対応のように思えた。いや、あるいはそれは、ただ自分の罪の重荷を、葵先生という存在に肩代わりしてもらいたいだけの、身勝手な逃げだったのかもしれない。その時の俺には、まだその区別さえも、分かっていなかったのだ。

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