第11話 初めての報酬


 再び、あの進路指導室のドアの前に立っていた。しかし、数週間前の俺とは、心境が全く違っていた。あの時は、計画が成功するかどうかの不安と期待に満ちていた。だが今は、勝利の凱旋を待つ将軍の気分だ。俺は約束を果たした。91点という、自分でも信じられないほどの高得点を叩き出したのだ。今度は、先生が約束を果たしてくれる番だ。

 ドアをノックし、中から聞こえる「どうぞ」という、あの落ち着いた声に応じる。しかし、部屋に入った瞬間、俺の楽観的な期待は、粉々に打ち砕かれた。


 西日が差し込む部屋の空気は、以前よりも重く、冷たく感じられた。早瀬先生は、厳しい表情で俺を迎え、自分の向かいの椅子に座るよう、顎で示した。彼女の前に広げられた俺の成績一覧表。英語の「91」という数字だけが、まるで孤島のように誇らしげに浮かんでいるが、その周りは、数学、古典、化学……軒並み赤点に近い、惨憺たる数字の海が広がっていた。

 「説明してくれるかしら、山上君」

 先生の指が、総合点の欄をトントンと冷たく叩いている。その数字は、確かに前回よりも数点、低くなっていた。

 「英語だけ、それも文法問題だけが突出してできている。他の教科は、前回よりもひどくなっているじゃない。これじゃあ、何の意味もないのよ」

 頭をガツンと殴られたような衝撃だった。天国から地獄へ。有頂天だった俺は、一瞬にして現実へと引きずり戻された。そうだ、約束は「英語で80点以上」だったが、こんな歪な成績を彼女が許容してくれるはずがなかったのだ。俺は、あまりに自分の都合の良いように、物事を解釈しすぎていた。

 「すみません……」

 俺は、絞り出すように謝罪した。しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。俺の努力は、こんな形で終わらせるわけにはいかないのだ。

 「でも、約束は……! 次は、絶対に他の教科も頑張るから! お願いします、先生……!」

 俺は椅子から立ち上がり、机に手をついて、必死に頭を下げた。その、なりふり構わぬ俺の姿に、先生の厳しい表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。彼女は、大きなため息を一つつくと、呆れたような、しかし同時に、俺の自分への執着を再確認して少し嬉しそうな、実に複雑な表情を浮かべた。

 「……本当に、しょうがないわね、あなたは」

 その声には、もう冷たさはなかった。

 「次の土曜日の午後、空いてる?」

 「え……はい」

 「じゃあ、うちに来なさい。……約束は、果たしてあげる」

 先生の自宅。その、予想の斜め上をいく提案に、俺は一瞬、言葉を失った。そして、遅れてやってきた歓喜の波に、全身が震えた。


 土曜日の午後。指定された住所のアパートの前に立ち、俺は何度も深呼吸を繰り返した。心臓が、肋骨を叩き割って飛び出してしまいそうだ。インターホンを押し、中から聞こえる「はーい」という声に応じると、ドアが開いた。そこに立っていたのは、スーツ姿ではない、白いニットに身を包んだ、いつもよりずっと無防備に見える早瀬先生だった。

 通された部屋は、綺麗に片付いており、清潔な匂いと、彼女のものらしき甘い香りが混じり合っていた。そこは、俺の雑然とした部屋とは別世界の、大人の女性の空間だった。

 二人でソファに腰掛け、緊張した沈黙が流れる。やがて、先生は意を決したように、ゆっくりと眼鏡を外し、ローテーブルの上に置いた。教師の仮面が、外される。そして、彼女は俺の方へと身体を寄せ、その顔が、ゆっくりと近づいてきた。

 俺は、固く目を閉じた。

 次の瞬間、唇に、信じられないほど柔らかく、そして温かい感触が触れた。

 全身に、電気が走るような衝撃。脳が、思考を放棄する。緊張で汗ばむ手のひら。部屋の清潔な匂いと、間近で香る先生の甘い香水の香り。耳元で鳴り響く、自分自身の心臓の轟音。そして、唇が触れ合う、微かな、濡れたリップ音。全てがスローモーションのように感じられた。

 俺は、この瞬間のために生きてきたのだと、本気で思った。しかし、その至高の感覚は、長くは続かなかった。初めてのキスの感触と、これまでの全ての興奮、そして何より、溜めに溜め込んだ性的なエネルギーが、この一瞬で暴発したのだ。俺は、自分でも抑えきれずに、ズボンの中で熱い奔流を放ってしまっていた。

 俺の身体が、びくんと大きく震える。その震えで、先生も俺の異変に気づいたのだろう。驚いたように、そっと唇を離した。


 顔から火が出るほど熱い。穴があったら入りたい。俺は、あまりの恥ずかしさに、顔を上げることができなかった。しかし、予想していた軽蔑や怒りの声は、聞こえてこなかった。

 「ふふっ……」

 聞こえてきたのは、吐息のような、優しい笑い声だった。恐る恐る顔を上げると、先生は、少し意地悪そうに、しかし母のように優しく微笑んでいた。彼女は俺のズボンの股間の濡れた部分に気づいていたが、それを一切責めることなく、こう言ったのだ。

 「シャワー、浴びていく? ……お洋服は、洗ってあげるから」

 その言葉に、俺は救われた。自分の失態を、この人は笑って受け入れてくれた。強烈な恥ずかしさを感じながらも、それ以上に、彼女の優しさと大人の余裕に、俺は完全に心を奪われていた。この出来事は、俺たちの関係が、単なる取引ではない、より深く、親密なものへと変わる、決定的なきっかけとなったのだった。

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