第9話 勝利と疑惑
定期試験の初日。俺、山上健太は、夜明け前の薄闇の中で目を覚ました。窓の外はまだ深い青色に沈んでいる。決戦の朝だ。玄関で新品のように磨き上げたローファーに足を入れると、母親が心配そうな顔で「朝ごはん、ちゃんと食べたの?」と声をかけてきた。俺は「ああ」と短く応え、扉を開けた。冷たく澄んだ空気が、火照った頬を撫でる。
その日の俺の足取りは、これまでの人生で経験したことがないほど力強く、迷いがなかった。それは、試験への絶対的な自信からくるものではなかった。むしろ、やるべきことを全てやりきった後の、一種の神聖なまでの開き直りに近いものだった。あの地獄のような猛勉強の日々。親友の唯斗と顔を突き合わせ、エナジードリンクをガソリンのように体に流し込み、ただひたすらに知識を詰め込んだ時間。そして何より、俺の心を燃やし続けた、早瀬先生とのあの密約。その全てが、今の俺を支えていた。「あとは、やるだけだ」。俺の心は、奇妙なほど静かに、そして激しく燃えていた。
決戦の場となる教室は、しんと静まり返り、生徒たちの緊張感が飽和しているかのようだった。やがて、試験開始のチャイムが鳴り響く。問題用紙が配られ、教室の前方から試験官が入ってきた。その姿を認めた瞬間、俺の心臓が大きく跳ねた。早瀬葵先生だった。
彼女は、いつも通りの落ち着いた足取りで教壇に立ち、静かに教室全体を見回した。そして、その視線が俺の席の上を通り過ぎる、ほんの一瞬。他の誰にも、隣の席の陽菜にすら気づかれないほどの、本当に微かな笑みが、彼女の唇に浮かんだのだ。それは、「頑張って」という激励のようでもあり、「約束、忘れていないわよ」という、俺たち二人だけの共犯者の合図のようでもあった。
秘密のサインを受け取った俺は、全身に電気が走るような感覚と共に、力がみなぎるのを感じた。勝利を確信した。俺は深く息を吸い込み、目の前の問題用紙に向き合った。
鉛筆を握りしめ、問題を解き進める。驚くほど、頭が冴えわたっていた。これまで暗闇の中を手探りで進むようだった英文法の問題が、まるで光に照らされた一本道のように、はっきりとその構造を見せている。あの時、唯斗が「ここは絶対に出るから覚えろ」と叫んでいた箇所だ。ここは、先生が「いい質問ね」と褒めてくれた、あの不定詞の用法だ。血のにじむような努力を重ねてきた記憶が、鮮明に、そして力強く蘇る。これまでの苦行が、今、確かな手応えとして俺に返ってきていた。これならいける。80点どころか、もしかしたら満点に近い点数が取れるのではないか。そんな、生まれて初めて感じる確信が、俺の胸に芽生えていた。
地獄のようだった試験期間が終わり、三日後の答案返却の日。教室は、審判を待つ罪人のような、重苦しい雰囲気に包まれていた。俺は、平静を装いながらも、机の下で固く拳を握りしめていた。
「――山上」
早瀬先生に名前を呼ばれ、俺は椅子から立ち上がった。彼女から答案を受け取る。その指先が、ほんの一瞬、俺の指に触れた。その微かな感触に、俺の心臓はまたしても大きく跳ねる。
自席に戻り、恐る恐る答案を裏返す。そこに、赤いインクで書かれていた数字を見て、俺は思わず息を呑んだ。
**91点**。
やった。やったんだ。俺は、約束を果たしたんだ。歓喜の叫びが喉まで出かかったが、必死にそれを飲み込む。口元が、自然と弧を描いていくのを止められない。
しかし、その歓喜は、すぐに周囲の異様な空気によってかき消された。
「うそ……山上が91点?」
「ありえないだろ、絶対カンニングじゃね?」
誰かが呟いたその一言が、導火線だった。教室中が、どよめきと、ひそひそと交わされる疑惑の声に包まれる。これまで勉強とは無縁で、成績も常に下位を彷徨っていた俺の、この急激な成績上昇。彼らにとって、それは信じがたい、不自然な出来事だったのだ。嫉妬と不信感に満ちた視線が、ぐさぐさと俺に突き刺さる。
俺は、そんな彼らの声を耳にしながらも、内心では「何も知らないくせに」とせせら笑っていた。努力が報われたという万能感が、俺を周囲から孤立させていく。
「あいつ、マジでやってたって、あれほど言ったろ……」
ただ一人、親友の唯斗だけが、呆れたようにそう呟いて俺を庇ってくれたが、その声はクラス全体の大きなざわめきの中に、虚しくかき消されていった。俺は、勝利の美酒に酔いしれる一方で、その勝利がもたらした新たな試練の始まりを、まだ知る由もなかった。
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