第8話 決意の夜


 決戦を翌日に控えた夜。俺の部屋は、さながら籠城戦の司令室と化していた。机の上にはエナジードリンクの空き缶が墓標のように林立し、参考書やノートの山が、かろうじて一条の作業スペースを残して、その全てを覆い尽くしている。その中心に、まるで祭壇に祀られた聖典のように鎮座しているのは、手垢で黒ずみ、ページがよれて膨れ上がった、あの一冊の**「英文法の問題集」**だった.


 部屋の主である俺、山上健太は、鬼気迫る表情でその問題集と向き合っていた。目の下には、ここ数日の無理がたたって濃い隈が刻まれている。しかし、不思議と眠気は感じなかった。緊張と興奮が、アドレナリンとなって全身を駆け巡り、脳を覚醒させているのだ。そして、もう一つ。自らに課した「オナニー断ち」によって鬱積した性的なエネルギーが、行き場を失って暴れ回り、極限の集中力を生み出していた。

 カチ、カチ、と時計の秒針が刻む音だけが、やけに大きく部屋に響く。その一秒一秒が、早瀬先生との約束の時までのカウントダウンのように聞こえた。俺の頭の中は、先生とのキスのこと、そしてそれを手に入れるための試験のことだけで、完全に飽和していた。


 ふと、集中力が途切れた瞬間、瞼の裏にあの日の進路指導室の光景が、鮮やかに蘇る。俺の告白に動揺し、眼鏡を外した先生の、少し潤んだ無防備な瞳。照れ隠しのように贈られた、あの投げキス。その唇の、きっと信じられないほど柔らかいであろう感触を、甘い香りを、俺は舌の上で味わうかのように具体的に想像した。途端に、腹の底から熱いものがこみ上げ、身体が正直に反応する。

 「……ダメだ、今は集中しろ!」

 俺は自分に言い聞かせ、その疼きを鎮めるかのように、猛烈な勢いで英単語と文法を頭に叩き込んでいく。先生の唇……いや、動名詞。先生の香り……いや、現在完了形。先生の胸の膨らみ……いや、関係代名詞の非制限用法。まるで獣のような欲望を、知性という名の檻に無理やり押し込めていく。これまでの人生で、これほどまでに何かに没頭したことがあっただろうか。俺は、驚くべき副産物として、己の欲望を制御し、別のエネルギーへと昇華させる術を、知らず識らずのうちに身につけ始めていた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。問題集の最後のページを終え、俺はペンを置いた。その時、俺の心に、これまでとは少し違う種類の感情が芽生えていることに気づいた。

 最初はただ、純粋に「キスがしたい」という、身も蓋もない欲望だけだった。しかし、今は違う。もちろん、その欲望が消えたわけではない。だが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、別の想いが俺の心を占めている。

 この試験で80点を取ったら、先生はどんな顔をするだろうか。きっと、驚くだろうな。「すごいじゃない、山上君」って、あの美しい瞳を丸くして、褒めてくれるかもしれない。がっかりさせたくない。俺の覚悟が、本物だったと証明したい。

 それは、ただの性的な報酬を求める気持ちとは、明らかに質の違う感情だった。一人の生徒として、敬愛する教師に認められたいという、どこまでも純粋で、切実な承認欲求。いつの間にか俺の中で、早瀬葵という存在は、単なる欲望の対象から、俺の人生を導いてくれる、本当の意味での「先生」へと変わり始めていたのかもしれない。


 窓の外が、少しずつ白み始めている。夜が終わり、朝が来る。俺は椅子に深くもたれかかり、天井を仰いだ。身体は疲労困憊で、鉛のように重い。しかし、心は不思議なほどの静けさと、確かな充実感で満たされていた。

 俺はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。ひやりとした夜明け前の空気が、火照った頬を撫でる。

 「絶対に、80点取ってやる」

 誰に言うでもなく、朝焼けの空に向かって、俺は静かに誓った。俺のこの狂おしいほどの努力は、もはや単なる欲望のためだけではない。早瀬葵という存在が、俺の空っぽだった人生に与えてくれた、その計り知れない影響の、唯一の証明なのだから。

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