第7話 陽菜の献身


 俺の生活から、ゲームや漫画といった娯楽が消えて久しかった。その代わりに空いた時間を埋め尽くしたのは、インクと紙の匂い、そして隣に座る幼馴染、佐藤陽菜の存在だった。

 放課後のファミレス。ドリンクバーの喧騒と、他の客の賑やかな会話がBGMのように流れる中、俺たちは窓際の席で向かい合っていた。俺が猛勉強に励んでいるという噂は、どうやら彼女の耳にも届いているらしい。陽菜は、その事実を自分のことのように喜び、俺の力になりたいと純粋に願ってくれていた。


 「健太、これ。作ってみたんだ」

 そう言って彼女が差し出したのは、一冊の分厚いノートだった。俺が訝しげにそれを受け取って開くと、息を呑んだ。そこには、俺が苦手としている数学や古典の重要事項が、驚くほど丁寧に、そして分かりやすくまとめられていたのだ。可愛らしいイラストや、項目ごとに色分けされたマーカー。それはもはや単なるノートではなく、彼女の優しさと時間の結晶そのものだった。

 「……すげえ。お前、いつの間にこんな……」

 「ううん、私が勝手にしたことだから。健太が頑張ってるの見てたら、私も何かしたくなって」

 はにかみながらそう言う陽菜の笑顔に、俺は言葉を失った。心が、温かい何かで満たされていくのを感じる。しかし、その温かさは、すぐに鋭い針となって俺の良心を突き刺した。彼女のこの献身は、俺が教師という高尚な夢に向かって努力していると信じているからこそ向けられるものだ。その原動力が、一人の年上の女性との性的な取引にあるなどと、彼女は夢にも思っていない。このノートを受け取る資格が、果たして今の俺にあるのだろうか。罪悪感が、喉の奥で苦い塊となってつかえていた。


 別の日には、海が見える公園のベンチで、二人並んで参考書を広げた。ここは、俺たちが小学生の頃から通っている、秘密の場所のようなところだ。眼下に広がる穏やかな海に、ゆっくりと夕日が沈んでいく。空と海が、燃えるようなオレンジ色に染め上げられ、潮風が心地よく頬を撫でていく。

 隣に座る陽菜の存在は、不思議な安らぎを俺に与えてくれた。彼女の体温、シャンプーの香り、時折聞こえる小さな寝息。その全てが、俺の荒んだ心を優しく癒してくれる。しかし、そんな穏やかな時間の中ですら、俺の意識は別の場所にあった。

 俺の視線が、時折、無意識のうちに学校の方角を向いていることに、陽菜は気づいていた。職員室の窓の明かりが、夕闇の中で小さく灯っている。あの光の中に、今、早瀬先生はいるのだろうか。何を考え、誰と話しているのだろうか。俺の心は、陽菜の隣にいながら、常にあの美しい人のことでいっぱいだった。

 陽菜は、何も言わなかった。ただ、俺の視線が学校の方を向くたびに、彼女の肩がほんの少しだけ強張るのを、俺は気づかないふりをした。彼女は、俺の心が自分にはない別の場所に、それもおそらくはあの新任の英語教師に向いていることを、薄々感じ取っているに違いなかった。それでも、彼女は何も言わずに、ただ静かに俺の隣に座り続けてくれる。その健気さが、俺の胸を締め付けた。


 「健太が頑張ってるから、私も頑張れるよ」

 沈黙を破ったのは、陽菜だった。彼女は、水平線の向こうに最後の光が消えていくのを見つめながら、ぽつりと言った。

 「同じ大学、行こうね。そして、一緒に先生になろうね」

 その、どこまでも純粋で、無垢な言葉が、鈍器のように俺の心を殴りつけた。ああ、ダメだ。俺は、こいつの隣にいる資格なんてない。俺の動機は、彼女が信じているような綺麗なものじゃない。先生という夢さえ、元はと言えば、あの人を手に入れるための口実に過ぎなかったのだ。彼女の優しさに触れるたびに、自分がとてつもなく大きな嘘をついているという感覚が、津波のように押し寄せてくる。


 俺は、陽菜の想いに応えることはできない。俺の心は、もはや完全に早瀬葵という女性に奪われてしまっているのだから。そして陽菜は、そんな俺の気持ちに気づきながらも、それでも俺を信じ、支え続けることをやめない。

 夕闇に包まれた公園のベンチ。俺たちの間には、言葉にならない、優しくも切ない、微妙な距離が生まれていた。俺はただ、彼女の隣で、自分の罪の重さを噛みしめることしかできなかった。

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