第6話 教師の試練
職員室での昼休みは、穏やかな時間が流れていた。同僚の教師たちが、昨日のテレビ番組の話や週末の予定について、和やかに談笑している。窓の外からは、昼休みを謳歌する生徒たちの楽しそうな声が、柔らかな日差しと共に差し込んでくる。しかし、私、早瀬葵の心は、その平和な光景とは裏腹に、静かな嵐に見舞われていた。
私の手元には、一人の生徒の成績表がある。山上健太。つい先日まで、どの教科にも特に秀でたところはなく、ただ毎日を気だるそうに過ごしているだけに見えた、ごく普通の男子生徒。その彼の名前を、私はデスクの上で無意識に指先でなぞっていた。
進路指導室での、あの密約。教師として、いや、一人の社会人として、決して許されるべきではない、あまりに軽率で危険な取引。生徒の純粋(だと、あの時の私は信じようとしていた)な好意を利用し、不適切な報酬をちらつかせてしまったことへの罪悪感が、鉛のように重く心にのしかかる。
しかし、同時に、私の心の中には全く別の感情も渦巻いていた。あの日の彼の、自分だけに向ける真っ直ぐで熱を帯びた瞳。自分の存在が、停滞していた彼の時間を動かすきっかけになれたのかもしれないという、教師としての喜び。そして、一人の男性から、これほどまでに強く求められたという、一人の女性としての抗いがたい高揚感。罪悪感と高揚感。その二つの感情が、私の心の中でせめぎ合っていた。
私は、必死に自分の行為を正当化しようと試みた。彼の動機が、たとえ不純なものであったとしても、結果的に彼の学力を向上させ、惰性だった日常に「目標」という光を灯すための『起爆剤』になるのなら……それもまた、教育的指導の一環と言えるのではないだろうか。そう、これはショック療法のようなもの。彼の眠っていた可能性を引き出すための、少しだけ大胆なカンフル剤なのだと。
そう自分に言い聞かせ、無理やり納得しようとする。しかし、休み時間に他の生徒たちが「最近、山上マジですげー勉強してんじゃん」と噂しているのを耳にするたびに、その付け焼き刃の理論は、いとも簡単に崩れ去った。彼の努力が真摯なものであればあるほど、私の動機がいかに不純であったかを、まざまざと見せつけられるようだった。
そんな葛藤の最中、ふわりとコーヒーの香りがして、顔を上げた。英語教科主任であり、私の指導教員でもあるベテランの鈴木京子先生が、マグカップを片手に、私のデスクの隣に立っていた。
「早瀬先生、お疲れ様。……最近、二組の山上君がすごく頑張っているみたいね。何か、いい指導でもしたの?」
何気ない、実に穏やかな口調だった。しかし、その言葉は鋭い刃となって、私の心の最も柔い部分を突き刺した。心臓が、大きく、痛いほどに跳ねるのが分かった。鈴木先生の笑顔の奥、その細められた瞳は、まるで私の全てを見透かしているかのように、鋭い光を宿していた。
「い、いえ……本人が、やる気になっただけですよ。私も、驚いているくらいです」
平静を装って答えたつもりだったが、声が自分でも分かるほど上ずるのを感じた。鈴木先生の客観的な視線は、私の行為がいかに教師として危ういものであるかを、無言のうちに突きつけてくるようだった。彼女はそれ以上何も追及せず、「そう。ならいいのだけれど。若いって、眩しいけど、危ういものでもあるから……あまり、一人で抱え込まないことね」とだけ言い、私の肩を優しくポンと叩いて、自分の席へと戻っていった。
残された私は、冷めてしまった緑茶をただ見つめることしかできなかった。鈴木先生との短い会話は、私の心に決定的な変化をもたらしていた。
そうだ、山上君を変えたのは、他の誰でもない、この私なのだ。その事実は、もはや疑いようがなかった。その認識は、教師としての喜びや達成感を、静かに、しかし確実に超えていく。
彼を導けるのは、私だけであってほしい。彼の成長を、誰よりも近い場所で見届けたい。他の誰にも、その役目は渡したくない。
それは、彼の未来を願う教師としての純粋な祈りとは、少しだけ質の違う、熱を帯びた感情だった。自分だけの力で彼を独占したいという、身勝手な欲望の芽生え。その危険な感情の正体に、この時の私は、まだ気づいていなかった。
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