第5話 友の戸惑い


 早瀬葵先生との密約を交わした翌日の放課後。俺、山上健太は、人生で最も重要な交渉に臨むべく、親友である山岸唯斗の部屋のドアを叩いた。唯斗は、俺とは正反対のタイプの人間だ。要領が良く、常に飄々としていて、物事を斜に構えて見ている節がある。だが、友情に厚い一面も、俺は知っていた。彼なくして、この無謀な計画の成功はあり得ない。


 「おー、健太じゃん。どしたの、そんな深刻な顔しちゃって」

 ドアを開けた唯斗は、ポテトチップスの袋を片手に、胡散臭そうな目で俺を見下ろした。彼の部屋は、いつも通り漫画雑誌やゲームソフトが散乱し、食べかけのスナック菓子の袋が小さな山を築いている。BGMのように鳴り響くゲームの電子音が、俺の悲壮な覚悟とはあまりに不釣り合いだった。

 俺は部屋に上がり込むと、その場に正座し、唯斗に向かって深々と頭を下げた。

 「唯斗……頼む! 俺に、勉強を教えてくれ!」

 「はあ? 勉強だあ?」

 唯斗は心底意外そうな声を上げ、ポリポリとポテチを咀嚼する。俺は顔を上げ、この数時間で練習してきた、最大限に悲壮感を漂わせた表情で訴えかけた。

 「このままだと、俺、進級できないかもしれないって……早瀬先生に言われたんだ。次の試験で赤点取ったら、マジでヤバいって……」

 もちろん、真っ赤な嘘だ。しかし、俺の剣幕は本物だった。葵先生の唇の感触、あの甘い吐息を思い出すだけで、いてもたってもいられなくなる。そのためなら、どんな演技も厭わない。俺のただならぬ気迫に、最初は面白がっていた唯斗の表情も、次第に真剣なものへと変わっていった。

 「マジかよ、お前……。あの美人な早瀬先生に、直々に脅されたわけ?」

 「ああ……。俺、先生をがっかりさせたくないんだ」

 その言葉にだけは、嘘はなかった。唯斗はしばらく俺の顔をじっと見ていたが、やがて「ぷはっ」と吹き出した。

 「ウケる。お前がそんな殊勝なこと言うなんてよ。いいぜ、面白そうじゃん。付き合ってやるよ」

 その日から、俺の人生は一変した。戦場は、唯斗の部屋。武器は、俺が本屋で買ってきた、**一冊の使い古された「英文法の問題集」**だけだった。これまでゲームのコントローラーしか握ってこなかった俺の手が、来る日も来る日も、ひたすらにペンを走らせた。部屋にこもるスナック菓子の匂いと、汗の匂い。唯斗は、勉強とは無縁だったはずの親友の豹変ぶりに心底戸惑いながらも、一度結んだ約束を違えることなく、真剣に俺の質問に答えてくれた。俺は、葵先生との甘美なキスを脳内で再生しながら、飢えた獣のように知識を吸収していった。


 そして俺は、自らにもう一つの、そして最も過酷な試練を課すことを決意した。目標を達成するまでの、「オナニー断ち」である。

 葵先生への性的な欲望は、もはや俺の全身を支配していた。毎晩、ベッドに入ると、先生の豊満な胸や、しなやかな腰つきが瞼の裏に浮かんでくる。そのたびに、俺の下腹部は正直に熱を持ち、疼き始める。しかし、俺はその衝動を、歯を食いしばって耐え抜いた。この溜まりに溜まったエネルギーを、こんな安っぽい形で解放してしまっては、あの至高のキスには到底たどり着けない。この欲望の全てを、勉強へのエネルギーに転換(昇華)させるのだ。そして、目標を達成した暁には、この全ての情熱を、先生本人にぶつける。そう考えると、この苦行すらも、甘美な前戯のように感じられた。

 俺の部屋の隅で、テレビゲーム機が静かに埃をかぶり始める。友人からの遊びの誘いも、「悪い、勉強があるから」と全て断った。食事中も、風呂の中ですら、俺の手には常に英単語帳が握られていた。


 俺の劇的な変化に、一番驚いていたのは母親だった。ある日の夕食後、俺がリビングのテーブルで問題集を広げていると、おずおずと声をかけてきた。

 「健太……あなた、どうかしちゃったの? 熱でもあるんじゃない……?」

 心底心配そうな母の顔に、俺はかつてないほど真剣な表情で言い放った。

 「将来のことを、考える時期なんです」

 母は、あんぐりと口を開けて固まっていた。

 俺の行動は、葵先生との密約という、ただ一つの目標に向かって、一直線に進んでいく。周囲の誰も、その真の理由を知る由もなかった。俺は、孤独な戦場で、たった一人、愛と欲望の炎を燃やし続けていた。

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