シーン22 オディル

 地面の固さで目が覚めた。

 背中が濡れていて気持ちが悪い。

 嗅ぎなれない草と埃の匂いでここがいつもの天幕ではないと気づく。

 そうだ。崖から落ちて……それから――どうなったんだ?

 見回せばどうやら僕がいるのは石造りの小さな建物の中だった。壁は苔に覆われ、崩れた天井からは日の光が差している。地面には背の高い草があり、ここが長い間使われていなかったのがすぐに推測できた。

 小屋には誰もいない。

 外で水の流れるような音が聞こえる。

 きっと、僕たちは運よく川岸に流れ着いた。気絶した僕をファルナが敵に見つからないようにここまで運んでくれたのだろう。

 次に気になったのはファルナの所在だ。

 彼女は僕が抱えて飛び降りたのだから、近くにいるはず。

 だが、姿は見えない。

 すぐに戻ってくるのなら移動せずに待つべきか、それとも探しに行く方がいいのか。一体、彼女は何のために外に出ているのか。

 思案していると頭の下にあったものに気づく。

 それはファルナが逃げるとき、ずっと大事そうに抱えていた鞄だった。中身について心当たりがあった。開けてみると、思った通り一冊の本が出てくる。

 重厚で頑丈な装丁の赤い本。

 ――明日の書だ。

 もし、ファルナが逃げるならこれを持って逃げないわけがない。戦争を変えてしまうほどの魔道具ならずっと手元に置いておきたいはず。

 それが、どういうわけか僕の枕になっていた。他に何もなかったからだろうけど、わざわざ枕にしてくれるのは彼女の育ちの良さを感じる。流石王女様といったところか。僕なんて枕はなくてもいいし、どこでだって寝られるのに。

 ちょっと考えて、中を見ることにした。

 本当はファルナの許可を取るべきだろうけど、今はいない。次の行動を考えるのにも情報を得るのは必要なことだし、しょうがない。

 何よりあふれ出す好奇心に勝てなかった。

 前は夜だから無理だと断られた。でなければ、内容の更新中で開くことはできない、と。

 だが、今はもう日が高くなっている。

 何も問題はない。


 獅子の月 水の日

 訳あって私は朝、ひとりで本を前に暇になる時間を得た。この時間は必要なものであり、動かすことのできないものでもある。

 せっかくなら無駄な時間は有効活用したいものだ。

 そういうわけで私は日常のあれやこれやを綴ることにする。

 もしも敵の誰かがこれを手にしたのなら、笑えるようなものにしよう。


 これが一頁目。

 何かがおかしい。

 更に頁をまくっていく。


 兎の月 風の日

 兄のひとりが私に会いに来た。兄は言ってることはよくわからないし、たまに虚空に向かって話しかけるしで少し不安になる人だった。

 この日、兄様は行軍で足を痛めるといけないからと新しい靴をくれた。心配してくれたのだと思う。私が馬に乗って移動するのは知らなかった様子だ。上等な靴ではあったが、乗馬には不向きなので帰ってきてから使おうと思う。

 そして、父について少しだけ話した。

 少し考えればわかるものだが、この策は危険だ。

 しかし、だからこそ有効だと信じる。

 王族を囮に使うと誰が思うだろう。私たちはどれも戦闘能力に関してはそれなりのものを持つ。私も魔術士としてはそれなり以上の自負はある。

 ただひとりだけ病弱で戦いには向かない姉がいる。

 姉様は戦いとは無縁の御方。きっと今日も深窓の令嬢を気取って男漁りをなされている。男どもは儚げで淑やかな姉様にいつも夢中だ。その本性に気づく様子もなく。

 私も姉様のように自由であればもっと楽しく生きられるのだろうか。


 兎の月 凪の日

 久々に王族だけで食事を取った。

 次にこうして集まるのはだいぶ先だろう。

 お父様は戦場の働きを見て後継者を選びたいと考えているご様子。

 普通の王は自分の子を全員戦場に出さない。いや、姉様がひとり城に残るか。

 とにかく、いくら未来が読めるとはいえ、一度未来を逸脱すれば戦場にあるのは混沌だ。いつ誰が死ぬともわからない。それは私も例外ではない。

 だからこそ、お父様の狙いがわかる。

 お父様はこの戦いを使って私たちの器を見極めようとしているのだ。

 私たちに敵の目が向くように仕向け、武功を立てられる場所に配置されている。私たちはそれぞれ戦いのために鍛えてきた。策さえ嵌まれば結果は付いてくるだろう。

 実を言うと王になりたいという兄姉は多くない。

 人が誰しもそうであるように、私たちにも向き不向きがある。戦に向いている兄がいれば、人心掌握に長けた姉もいる。苦手な分野も同様だ。私も魔術には自信があるが、視野は小さい。街のひとつふたつくらいを治めるのが限界だと自覚している。

 それでもザラメルギスが王国である以上、次の王は必要。

 できれば、兄のどちらかが王を継いで欲しい。

 私は――

(この後にも何かが書かれていたがインクが滲むほど濃く塗りつぶされている)


 どう見ても未来のことじゃない。

 これは過去。

 これは日記だ。

 過去のこと、それもごく個人的なファルナと王族のほのぼの生活の記述がずっと続いている。これを覗き見るのは罪悪感がふつふつと湧いてきた。

 しかし、手は止まらなかった。


 鷹の月 無の日

 私には従者がいる。

 無口で何の意思表示もしないが、忠実で有能な戦士だ。

 彼女には少し人とは違うところがある。そこが私は気に入っている。

 何より彼女は兄より譲り受けた戦士なのだ。蹄鉄隊も素晴らしい戦士たちだが、彼らは少し私と距離がある。お父様との確執のせいかもしれない。

 裏切られることには少し嫌な思い出がある。

 私は誰も信じていないが、私を信じてくれる人間は多い方がやりやすい。

 昨日は面白い兵を見つけた。

 どう扱うかは正体を見極めてからだが、取り込めれば面白い。

 いつもと同じように心酔させてやろう。


 今のが最後の頁。

 実際に文字が書かれていたのは三分の一ほど。残りの頁は白紙のようだ。

 まだ何かないかとパラパラめくっていると、後ろに気配があった。

「何をしている?」

 聞き覚えのあるはずの声。

 振り返る。

 優しさに満ちた王女の姿はどこにもない。

 氷のように冷たい表情を浮かべ、瞳は心を推し量るかのように鋭い。

 どんな言い訳も通用しないことを無言で告げていた。

 ゆっくりと歩いてきたファルナは僕の手から本を奪った。

 すっと僕の見ていた頁に視線を走らせる。

「見たのだな」

「これは何なのですか?」

「読んだなら、わかるだろう? 偽物だよ。明日の書の」

「……僕を騙していたんですね」

 彼女は薄く笑う。

 思ったよりも心は落ち着いている。やはりか、という気持ちが大きい。

「読んだのにわからなかったのか? 貴様だけではない。私は敵も味方も騙すためにこれが本物であるかのように振る舞う必要があった」

 ファルナが本を閉じる。

「『私が明日の書を持っている』――これはそう欺くための策略だ」

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