シーン21 オディル

 すでに空は白み始めていた。

 三人の怪我人はもうここから動くことができなくなっていた。

 後続の部隊が拾ってくれることを期待して途中に置いていくしかない。

 せめて生き延びる確率が上がればと思って僕も手持ちの水を彼らに渡した。獣人は弱々しく笑って礼を言った。

 僕は自分が善人とは思っていなかったけど、こう何度も他人を見捨てるような真似をしていては心が擦り切れてしまいそうだ。

 周りの人たちの表情も暗く、疲れがにじみ出ている。

 一体、あとどれくらいで本隊までたどり着くのだろう。もう半分は過ぎたか。森を抜けてちゃんとした道に出られればもっと楽になるのに。

「止まれ」

 獣人の指さした方を見れば木の上に仮面の男が立っていた。

 影のように朧気で不確かな存在感。確実にそこにいる。木の枝のたわみも地に落ちた影も、そこに人がいなくてはあり得ないものだ。だが、何もないと思ってしまう。朝日の中でそこだけがぽっかり空いた穴のように暗い。

 皆が武器を構えた。

「ウルガルはどうした?」

 獣人の問いに男は答えない。

 信じたくはなかった。

 ウルガルやミラが負けるなんてあり得ない。

 しかし、現実としてここにいるのはウルガルではなく仮面の男だ。

 男は木から木へと飛び移りながらこちらへと向かってきた。

 サリートが炎の魔術で牽制するも、またその姿は消えていた。次は木の上だろうか、岩陰だろうか。

「走れ! 少しでも奴から距離を取るぞ!」

 獣人の掛け声に合わせて森の中を走り出す。

 『予兆』には「残瘴」の文字が出ている。まだ少し遠い。おそらく死ぬのは昼頃か。立ち位置を変えれば『予兆』は小刻みに変動する。死が間近に見えるときもあれば、昼より長くなるときもある。だが、どれも一日以内だ。

 全滅。

 最悪の結果が頭を過る。

 しかも、今度は前と違って僕も死ぬ。

「なあ、オディル。何が見えた?」

「それは……」

 これを伝えていいのか。

 僕だけが知っていればせめて死ぬまでは希望を持っていられるんじゃないのか。

 答えられない。僕はサリートに答えを返せなかった。

「ああ。だいたいわかった。未来が見えても詰んでたらどうしようもないわけだ。運命ってやつは融通が利かねえな」

「すみません」

「あんたが謝ることじゃないさ」

 森が開ける。

 前を歩いていた獣人が止まった。

「嘘だろ……」

 その先は切り立った崖だった。

 遥か下に大きな川が流れている。

 つまり、僕たちは逃げているように見えて、ずっと追い立てられていたのだ。わざと仮面の男が姿を見せたのもこの場所に誘導するためだった。

 金属音がして振り返れば仮面の男が獣人たちと切り結んでいた。

 一度剣を振ってはすぐに下がる。そして、また瞬時に距離を詰めている。

 このヒットアンドアウェイが彼の基本戦術だった。

 その足さばきは身体能力のみで行っているわけではなく、エイドの重装兵がやっていたように肉体を魔術で強化しているはずだ。でなければ、あんな物理法則を無視した加速と減速を繰り返せるはずがない。

「距離を取らせるな! 囲め!」

 獣人たちは距離を詰め、逃げる空間を潰そうとする。

 それを察してすぐに男は戦い方を変えた。

 大きく地面を蹴る。

 獣人と交錯する。剣が煙のように消えた。男は止まらない。瞬きの後にあったのは斬られ、膝をつく獣人と囲みを抜けてファルナへと迫る仮面の男だった。

 小隊の獣人たちより男が素早いわけではない。しっかりと見れば目で追える。同時に走ればきっと獣人が勝つ。しかし、男には誰も追い付けなかった。彼らはどういうことか数秒の間、男を見失っていた。

 この不可解な現象について考える暇はない。

 敵はもうすぐそこに迫っていて、もうファルナの前には僕とサリート、その他には弓を構えた三人の獣人がいるだけだ。

 魔術が、矢が次々に撃ちだされ、男を狙った。

 その攻撃が来るのをわかっているかのように躱す。

 エイドの魔術兵とは違う恐怖が形を持ってそこにいた。それは『予兆』によれば僕に残瘴汚染をもたらし、死に至らしめる。今までのどんな死よりも確実で逃げる想像がまったくできない。僕より彼の方がよっぽど死神の名に相応しいのではないか。

 何かを変えようとファルナを守るように近づけば死は急速に近づいた。

 呼吸が苦しい。

 息を吸っても空気が体に入っている気がしない。

 逃げれば助かるのはわかっている。敵の狙いはファルナだ。ファルナだけを殺せば他はどうでもいいはず。

 彼は一方的に小隊を翻弄しているように見えるが、そうではない。いくらか攻撃は当たっている。黒い服には目立たないながらも血が滲んでいる。だいたい朝日が昇った今、ウルガル小隊全員を相手にすることが可能だとは思えない。

 戦略的にもファルナ以外を狙う意味は薄い。

 つまり、任務を果たすか、無理になれば敵は逃げる。

 であれば、どうするか。

 ――ここからファルナがいなくなればいい。

「ファルナ様」

「……どうしました?」

 ファルナは残り少ない魔力で仮面の男を迎撃しようと集中していた。途中で治癒魔術を無駄撃ちしたこともあって魔力が足りないようだ。また顔色が悪くなっている。

「今から崖から飛び降りていただきたいと思うのですが、構いませんか? 高さはそこそこありますけど、下は川ですし、僕が庇います。多分生き残れると思うので」

「……はい?」

「そう言っていただけると助かります」

 振り返ってファルナに飛び掛かると彼女の体を抱きしめた。

 一気に崖の方へと飛んだ。

 時がゆっくりと流れるように感じた。

 振り返ったサリートは目玉が飛び出るような顔をしていた。仮面の男も顔をこちらに向けたまま、獣人と衝突した。ファルナは何か大声で叫んでいたけど、何を言っていたかよくわからない。きっと声にもならない叫びだろう。

「おいやめろ離せバカ無礼者!」

 落下する。心臓の鼓動。全身に風を切る感覚。耳鳴り。強く水面に叩きつけられる。冷たさ。痛み。それらが刹那の間に通り過ぎて行った。

 その後のことは意識にない。

 でも、生きてるならこれでいいと思う。

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