シーン12 オディル

 湿った空気と『予兆』を振り払うように走り続けた。

 武器と魔術の音は遠ざかり、近くに聞こえるのは虫と獣の鳴き声ばかり。もうウルガル小隊とはだいぶ離れたところまで来ていた。敵の気配もない。

 なのに、『予兆』がこびりついて離れない。

 それどころか赤い点滅が次第に激しくなり、近づいてきている。

 先程会った仮面の暗殺者ではない。彼の武器は異形の剣だった。僕が『予兆』から読み取ることができる死因はもっと別のものだ。魔術だとしてもタイプが違う。

 ただ、サリートから教わった文字も完璧ではない。もしかすると、クルスミア語にも同じ文字でも違う読み方をするものがあって、まったく違う意味を指している可能性もある。複数の言葉を組み合わせると字面からは想像できない意味になることだってある。文法や慣用句も合わせれば、付け焼刃の単語暗記なんかじゃ全然足りない。

 だから、今、脳内にある言葉が僕の知るそれとは限らないのだ。

 丘の麓近くまで来た。

 僕は足を止め、汗をぬぐい、息を整える。

 ゆっくりと森を抜けると大きな影がひとつあった。

「ひとりか?」

 老いたケンタウルス――グラニだった。

 両手に槍を持ち、月光に晒された肌の電紋が淡く光って見えた。

 『予兆』の文中には『雷』、そして『槍』の文字がある。その二文字はどちらも蹄鉄隊を率いる迅雷のグラニそのものを予感させていた。味方であり、今まで見た人間の中で最も強いであろう戦士が僕の死因になるなんて信じたくない。

 だが、ここまで状況がそろっていれば否定は難しかった。

 防衛隊の副官、ファルナが地位だけの神輿であると考えれば実質的な指揮官であるグラニが単騎で僕を出迎える理由が抹殺以外にあるだろうか。

 ただ、殺されるにしても理由がわからない。

 幸い、『予兆』の死まではまだ少しの猶予がある。できるだけ話を長引かせれば、その時間が伸びるかもしれない。

 試してみる価値はある。

「報告いたします。ウルガル小隊は夜襲に成功しました。敵の野営地を発見し、食料庫を襲撃。撤退中に追手との戦闘に突入したため、僕が先行して報告に参りました。敵の数はこちらの数倍です。本気で赤錆の丘を落とすつもりでしょう」

「ウルガルは優勢だったか?」

「おそらく。敵は奇襲を受け、まだ混乱の最中です。消化にも人員を割かなければなりません。それに夜の森では魔術士より獣人の方が有利でしょう」

「そうか。ならば」

 グラニはうっすらと目を開けて僕を見つめている。

 そこからは何の感情も読み取れない。

「ファルナ殿下に報告に行け」

「……グラニ様はいかがされるのですか?」

 動こうとすれば『予兆』が強まる。

 ここで話を打ち切られるわけにはいかなかった。

「何人か斥候を放っている。しばらく、その報告を待つ。もう十分待ってウルガルも斥候も戻らないようであれば今動ける蹄鉄隊を集めて援護に向かう」

「その斥候なら戻ってこないかもしれません」

「何故だ?」

「敵に手練れの暗殺者がいます。小隊長はこれまで放った斥候を排除したのがその暗殺者だと言っていました。今回も後れを取ったのかもしれません」

 考えてみれば僕が彼の索敵に引っかからず、野営地までたどり着けたのは運が良かった。

 だが、実際には運ではなく、他の斥候が別の場所で仮面の男の犠牲になっていたから安全に進むことができたのではないか。

 そう考えれば『予兆』が変化していたことにも説明がつく。

「なるほど。それだけか?」

「ええと、野営地の詳細についてもここで報告した方がよろしいでしょうか? 僕は外から見ていたので潜入した小隊長たちのが詳しいかと思いますが」

「ならば、いい」

「では、ファルナ様に報告に……」

 僕は右足を前に出しかけた状態で停止していた。

 つー、と額から頬へと汗が流れ、あごの先から地面に落ちた。

 動けば、死ぬ。

 ずっと予兆がすぐそこにある。

 何か言わないと、何か話を引き延ばさないと。

 もう頭の中はめちゃくちゃで、心臓が耳鳴りのようにうるさく響く。

「何故ですか……」

 思考が口から漏れていた。

「何故、グラニ様は僕を殺そうとするのですか?」

 気持ち悪い。すぐに吐いてしまいそうだ。

 走っていたときよりもずっと体が火照っている。

 今は味方が誰もいない。相手は魔獣やエイドよりもずっと強い。逃げる手段も方法も思い浮かばない。ここまでの窮地は今までになかった。

「殺気は出していなかったはずだが、どうして気づいた?」

「先にお聞きしているのは僕です」

「例の『直観』か?」

「その通りです。早く答えてください」

「なるほど。であれば、その力。ある程度は認めてもいい。だが、どれだけの力なのかは不確定で君も完全に理解しているわけではない」

 『予兆』は少しだけ遠ざかった。

 少しだめ文面は変わったが、まだ『槍』と『雷』の文字がある。

「オディル、君の質問に答えよう。私は君が内通者なのではないかと疑っている」

「僕が、ですか?」

 これまでそんな怪しい行動を取っただろうか。

 思い返してみたがまるで心当たりがない。

「クグズット軍で唯一生き残り、丘の防衛では伏兵を見抜いた。これが偶然であれば奇跡的だが、敵と通じていたなら容易いだろう?」

 言い返そうと思った。

 だが、何を言えばいいのかわからない。

 自分を疑っている人間相手をどう説得すれば信じて貰えるのか。

「そして、今、君だけが帰還している。私は君だけが帰ってきたのを見て確信した。斥候を排除したというのもこの説に信憑性を与えている。斥候が君について報告しなければ正体が露見することなく、再びザラメルギス軍に戻れるのだから。そうなればどうなる? また味方を差し出すのだろう。クグズットやウルガル小隊と同じようにな」

「待ってください! 小隊長は、ミラ先輩は、必ず戻ってきます!」

 ウルガルがそう易々と死ぬわけがない。あれだけ威勢のいいことを言ったミラだってきっとすぐ戻ってくる。獣人たちは皆強かったじゃないか。

「僕は命じられて先に戻ってきただけです」

「無駄だ。状況がそろい過ぎている。覆すには相応の根拠がいる」

「……ほんの少しだけでいいんです。待ってください。本当に僕自身の力と偶然で生き残っただけで、敵から情報を得ていたわけじゃありません」

「待たぬ」

 グラニの槍がじりじりと音を立て、雷光を纏っていく。電紋に沿って青白い光があふれた。それはまるで、神話の生物ように神々しい。

 槍に込められた魔力は可視化できるほどに膨れ上がり、荒れ狂う雷となる。

「最後に君の『直観』を試そう。今からクグズット軍を滅ぼしたのと同じ威力の攻撃を行う。君がただの人間であれば死ぬ。『直観』が本物であれば君は生き残る。内通者でないと言うのなら、その力、証明して見せよ」

「僕の力はそんな都合のいいものじゃありません!」

「だが、そう思わない者もいる」

 槍を構えた。

「審判の時」

 跳躍したグラニは宙より、腕を振るった。

 青い雷光によって輝く二本の槍はそれぞれが星のごとく流れ落ちていく。

 無理だと思った。

 クグズットを全滅させた大規模攻撃なら逃げ場はない。あれは躱す場所などどこにもないのだ。今もどこに避けるか必死に探っている。どこに動いても『予兆』からは逃げられない。『雷』がずっと付いてくる。

 文字が読めたって意味がない。

 未来がわかっても意味がない。

 『予兆』がそんなに都合のいいものじゃないなんて最初からわかっていた。

 でも、ファルナとサリートが教えてくれた。『予兆』には人を救う力があるって。

 だから、僕はこの忌まわしい『予兆』に向き合ってもっと利用してやろうって決めたんだ。

 足りないのは『予兆』を使う僕自身にある。

 覚悟を決めたとき、答えは見つかった。

 闇を裂いて稲妻が落ちる。

 すべてを貫き、破壊する雷の槍。その槍は大地すらも砕いてしまうのではないかと思えるほどの力を持っていた。

 視界いっぱいに魔術の光が広がる。

 その光の中に一筋の闇を見た。

 轟音。

 そして、静寂。

 僕はまだ生きていた。

「……何故、動かなかった?」

 左右の地面それぞれに槍が突き刺さっていた。

 僕には傷ひとつない。魔術による余波すら浴びていなかった。

「隊長は殺すとは言いませんでした。『試す』と言ったんです。なら、答えがあるはずです。僕が弱いことなんて一目見ればわかります。だから、きっと僕に不可能なことはしない。どこかに躱せる場所がある。それが何もしないことでした」

 『予兆』が使えたとはいえ、抜け穴を見つけたのはギリギリだった。

 大規模攻撃はただのブラフ。威力の凄まじさは見せかけで攻撃範囲は狭い。僕を殺すつもりではあったが、一方でわずかなチャンスも残した。

 能力と同時に人格まで試されたような気分だ。

「なるほど。都合のいいものではないかもしれない。だが、運命を覆すことはできる。劇物だけに扱いに困る。君自身を含めてな」

 褒められているのか、微妙に反応に困る評価だ。

 だが、これで『予兆』は去った。近いことは近いがまだ一日以上はある。

 胸を撫でおろし、その場に座り込む。すっかり体に力が入らなくなっていた。

「君の力にはとても大きな可能性がある。時には他者を惑わせることもあるだろう。もしも誰かが不確かな力を神格化し、依存すれば破滅が待つ。そのとき、君は自分の意志とは無関係に大きな運命に巻き込まれる」

「そこまでのものでしょうか」

 まだグラニには僕の『予兆』について詳しくは言っていない。

 自分の死しかわからないと知っている僕からすれば見当違いに思える。

「故にその力の詳細をむやみに話すことを禁じる」

「ですが、すでに話してしまった人もいます」

「それは構わない。君にも理解者は必要だろう」

「はい」

「しかし、他は許さん。たとえ、ファルナ殿下であってもだ」

「……はい」

 ここまで念を押すということは何か理由があるのだろうか。考えてもさっぱり見当が付かない。僕を怪しんでいたわりに何かを聞き出そうともしないし。

 ふと、後ろが騒がしいのに気付いた。森の方だ。

 見ているとウルガル小隊が全速力で森を抜けて来るところだった。何人か服や髪が焦げてはいるが、大きな怪我をした様子はない。

 きっと、遠くからグラニの魔術を見て駆け付けたのだ。

「グラニ殿、敵はどこですかい!?」

 ウルガルが首をしきりに振って探すが、敵なんか見つかるはずがない。

「少し牽制しただけで逃げていった。オディルを狙っていたのだろう」

「あー、またですかい。こいつ今晩は良く狙われてるんすよねえ。弱い奴から狙うっていうのは定石だから仕方ないことではあるんですが」

「追手はどうした?」

「いや、それがあいつら一撃入れるだけのつもりだったみたいですぐ退散したんで全然です。首のひとつも取れやせんでした」

「被害は?」

「男前が台無しです」

 ウルガルが焦げた毛先を指さす。

「被害なし、と。結構」

 獣人たちから笑いが起きる。

 先程まで戦場にいたとは思えないほどのゆるい空気だ。

 この切り替えの早さも長く戦い抜くコツだったりするんだろうか。

「では、殿下に報告に上がれ」

「へえ」

 獣人たちがぞろぞろと丘を登っていくのを腰をついたまま見ていると、僕が倒れていることに気づいたミラが駆け寄ってくる。僕の手を引いて起こす。

「ねえ、グラニ様と何か話してなかった?」

「何でもないですよ」

 僕は笑顔で答えた。

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