金木犀のきみへ

縞間かおる

第1話 秋色の精霊の肩は儚く

 そのドーム状の建物は運河のほとりにあって

 運河に面したガラス張りの2階はティーラウンジになっていた。


 会社を定時に出て真っ直ぐここへ向かい、暮れなずむ日差しが運河に溶け、中洲に掛かる橋がライトアップされて夜の帳を引く様子と……仕事から解き放たれた人々が行き交う姿を、少しばかり見下ろしながら僕は資格試験の勉強をする。


 それがその頃の僕の日課だった。


“誰か”から……価値のある人間だと思われたくて

 なのにいつも……いつの間にか……

 一人取り残されていた。

 その結果、中州の突端から吹き上げるその日最後の噴水をいつも見送っている

 つまらない男……

 それが僕。


 こんな言い訳の様な、いつものルーティーンで……

 大きめマグカップのカフェオレをトレイに乗せて窓際の“指定席”に目を向けると

 先客……女性が居た。

 歩み寄って見ると

 手元に置かれたティー プレスの中の茶葉がまだ踊っているので、ほんのつい先ほど、“僕の席”に座ってしまったのだろう。


 諦めのため息をついて踵を返そうとした時、“本当に自然な”金木犀の香りに……

 僕は思わず足を止めて花のありかを探した。


“花”は彼女だった。


 彼女は……なかば頬杖を突くようにして、栗毛色の長い髪に左手を挿し入れ、それを少しばかり持ち上げていた。

 たぶんそこから

 金木犀は香っていた。

 落ち着いた赤のリボンに結わえられた(と言う風に僕には見えた)後ろ髪は背中に流れていたのだけど

 これらの髪のどこにも花の形跡はなく

 きっとフレグランスとして

 うなじに忍び込んでいるのだろう。


 とても清楚な顔立ちなのに……

 この季節には『少し涼しすぎるのでは?』と思えるような薄手のベージュのワンピースで……“下に着けているもの”の肩紐やきれいなレースが透かし見え、ドキリ!とさせられる。


 この様な物を……“魅せブラ”と言うのだろうか?

 無粋な僕には分かりかねる。


 ただ、左手から零れ落ちた髪の間から……強く光るエンゲージリングが顔を覗かせ、

 この人が纏う色を僕に知らしめた。


 でも金木犀の香りのせいだろうか……

 この“秋色の精霊”に余りにも心惹かれて


 僕は、いつもならあり得ない言葉を口に出した。

「隣……よろしいでしょうか?」


「えっ?!」

 その人が耳辺りに留め置かれていた左の手のひらをこちらへ向けて問い直してくれたので

 僕はドギマギと言葉を繋げた。

「いつも……最後の噴水をここから眺めているのです。それさえ見届けたら消えますから」


 彼女は左手を髪の流れに沿って耳から“ティー プレス”へ移し、そのガラスの筒へ手を伸ばし、そっと置き直して微笑んだ。


「どうぞ」



「あ、りがとうございます」


「噴水? ですか?」


「はい、あの中州の突端から、一日に何度か水が打ち上げられるのです。その最終時間がもうすぐで……」


「それをお茶しながらご覧になられる? 静かな時間がお好きなのですね」


「あ、その、僕はカフェオレで……勉強しながらですが」

 それから僕は……

 自分が決して『彼女をガン見したい』という下心じゃなくて

 いつもここで勉強しているっていうアピールを

 みっともなくも繰り返していたが……


「あっ!」

 と言う彼女の声と視線に慌てて、窓の外の噴水を眺めた。


『「虹だ!」』


 声がハモって思わず顔を見合わせる。

「『もう夕暮れなのに』」

 と

 またハモってしまって……

 彼女は口を押えしばし固まり

 ぼくは、頭を掻いて俯いた。

 だけど……

 不思議な事だけど……

 10を数えもしないうちに


「プハッ!」

「クスクス」


 とお互いを笑い合った。



「なんだか絶妙でしたね」


「漫才が出来そうな息の合い方でした」


「いや、それは無理でしょう。シャベリが重なったら先へ進まない」


「そうですね……でも面白いかも」


「う~ん……どうでしょう??……観客がついて来ないでしょう」


「いいじゃないですか 観客が居なくても……」

 ここまで話して

 彼女は“ハッと!”何かに気付き、ティー プレスのフィルターをギュー!と下へ押し下げた。


 僕は空気が変わった事を察し、テキストを出してページの上へ視線を据え置く。


 そしてしばらくは器が奏でる音とページを繰る音だけ……


 いや……

 僕の神経は気が気でなくなって来て

 耳は彼女の“音”を探し始める。


 だって彼女の……押し込めたため息が聞こえたから。


『無理やり止めていた何か』が……

 涙がらみの「グシュン!」となって漏れ出たから。


 僕が弾かれたように顔を上げると


 涙を隠そうと慌ててハンカチを引き上げた彼女の薬指のダイヤがティー プレスを弾いて……ガラスの筒は僕のテキストの方へ倒れ、中身が零れた。


「ごめんなさい!!」

 彼女、慌てて僕のテキストにハンカチを当てがったけど


 僕は自分のテキストなんてどうでもよかった。


 拭えなかった彼女の目元に、涙の粒が光っていたから……


 だから僕は

 何が何だか分からない怒りについ、声を荒げた。

「いいんです!! 本なんか! それより、指輪は?!ハンカチは?!」


「お願い……怒らないで……」


「怒ってなんかいません!!! だだ!! その……心配なだけです! でも、大きな声を出してしまって……すみませんでした」


「いいえ。私に謝らせて下さい。 本当にごめんなさい。私……バカですね……気持ちがちょっと変なのです。理科でも習いましたでしょ?『ダイヤモンドは傷付かない』って。だから大丈夫です。それにこれは……私の指には大き過ぎます」

 そう言いながら彼女は薬指のエンゲージリングに目を落とす。


「今、身に付けているものも……リボンとお手製の“金木犀のフレグランス”以外は全部、カレが選んで買ってくれたんです。」


 確かに彼女の細い指の上では収まり切れない程に……ダイヤが強烈に自己主張している。


「まさか!!そんな!…… あなたは指も肩も細く儚い……それなのに……」

 僕は次の言葉をとても言えずに飲み込んだ。


「見たのですね」


「えっ?!」


「な、何を? ですか?」


「薄い体の私に似合わない下着をです」



 いつの間にか外は暗く

 目の前の窓ガラスは

 運河の闇に浮かぶ鏡。


 彼女の視線の先には

 映し出された鏡の中の彼女


「一番恥ずかしいのは私です」


 僕は、自分の不躾な視線がとうに見透かされていると知って恥じ入った。

「……ごめんなさい」


 でも“鏡”の中の彼女は…手で胸元を隠しながらも言ってくれた。

「本当なら『お止めになって!!』を申し上げるところですが……“殿方はみんな同じ”と教えていただいたので……何も申し上げません」


「あの、僕のような不埒者が言う筋合いではないのですが……自分が着たいものを着ればいいじゃないですか!あなたは僕みたいじゃなく、とても素敵だから……もったいないです!」


 彼女、ちょっとだけキョトンと目をしばたたかせた。

「それって!透けて見えなくても……ですか?」


「当たり前です!!」

 また声が大きくなってしまって

 僕は耳まで赤くなった


 それから彼女と、とりとめのない話をした。

 そう、金木犀のフレグランスの作り方とか……そんな話を……


 そして、ライトアップされた橋を頻繁に人々が行きかう頃


 彼女は腕時計を確かめて席を立った。

「あなたがおっしゃる通りに……これから服を買いに参ります」


 僕は……努めて明るく微笑んだ。

「行ってらっしゃい」



「あなたなら……」


「えっ?!」


「いえ……やっぱりいいです。勉強、頑張って下さい。試験はいつですか?」


「来年の春です」


「そうですか……知っていますか?この運河のほとりは桜並木ですよ」


「ええ」


「来年はきっと“サクラサク”ですね」


「はい、頑張ります。でもその前の……桜の木の紅葉も美しいですよ」


「ここからも見れますね」


「僕は去年も見ましたよ。 また偶然、会えるといいですね」


「偶然を心待ちにするのは寂しいです……だから止めておきましょう……では、ごきげんよう」


「ごきげんよう」



 そうやってカフェを出た僕たちは……各々別の場所へと歩いていった。



 紅茶が染めたテキストのページは、まるで桜紅葉の絵の様な模様となって……あれから何度となく見てしまった。

 おかげでその単元はすっかり記憶してしまったけど……


 彼女との思い出はたったそれだけ。


 そう!

 彼女は元々違う世界に住む人だから……


 そして精霊の様に綺麗な人だったから。



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