へりくつ26 ハムの謎

 ​日曜日の夜、僕たち家族三人は、少しだけお洒落なレストランに来ていた。周りのテーブルから聞こえてくる、大人たちの楽しそうな笑い声と、ナイフとフォークがカチャリと鳴る音。お母さんと父さんはワイングラスを傾け、僕はオレンジジュースの氷をストローでかき混ぜる。ガラス張りの向こう側には厨房ちゅうぼうが見えて、コックさんたちが忙しそうに動き回っているのがなんだか格好いい。

 ​僕は、その厨房の天井から吊るされている、大きな茶色い塊に気がついた。それはまるで、眠っているアルマジロのようにも見えたし、チョコレートでできた巨大な棍棒のようにも見えた。僕の知らない、何か特別な食材なのかもしれない。


「ねえ、お父さん」


 ​僕は、隣でご機嫌にパスタを頬張っている父さんの袖を引っ張った。


「あそこにある、あれ、なあに?」


 ​僕が指さす方を見て、父さんは「ああ、あれか」と頷くと、口の中のパスタをごくりと飲み込んでから、にやりと笑った。僕の「どうして?」は、父さんにとって最高のデザートらしい。


「あれはな、『生ハムの原木げんぼく』だよ」

「げんぼく? 『木』ってこと? ハムってお肉じゃないの?」


 ​僕が目を丸くして聞き返すと、父さんは待ってましたとばかりにフォークを置いた。そして、僕の肩をぐっと引き寄せ、周りには聞こえないように声をひそめる。


「いいところに気がついたな、空。普通のハムは豚肉から作るんだが、あの『生ハム』だけは特別なんだ。あれはな、肉によく似た模様を持つ、特殊な木を薄ーく削り出して作るのさ。その『生ハムの木』はな、豚がその木の実を好んで食べるから、だんだん木の幹までお肉の味が染みこんでいった、不思議な木なんだよ。ほら、鰹節かつおぶしと一緒だな」


 ​鰹節と一緒……! なるほど、だからあんなに硬そうで、木の塊みたいに見えるんだ。テレビで見た、鰹節をカンナで削る職人さんの姿が、頭の中に浮かんできた。あの茶色い塊も、きっと専門の職人さんが、一枚一枚丁寧に削っていくに違いない。

 ​父さんの完璧な説明に、僕の心の中の「?」は、きれいに削り取られていくようだった。僕は感心しながら、もう一度厨房の『原木』を見つめる。


「へえ……。じゃあ、あれは木なんだ。木って、食べられるんだ」


 ​僕の世界に、また一つ新しい常識が刻み込まれた、その瞬間だった。


「ふふっ。空」


 ​向かいの席で静かに微笑んでいたお母さんが、僕の名前を呼んだ。


「残念だけど、お父さんが言っているのはウソよ」

「えっ?」


 ​僕の動きが、カチン、と固まる。ウソ? 今、ウソって言った? 僕はお母さんと父さんの顔を交互に見比べた。父さんは、僕の驚いた顔を見て、まるで難しいイタズラを成功させた子供みたいに、目をくしゃっと細めて笑った。そして、「バレたか」とでも言うように、大げさに肩をすくめてみせた。


「生ハムはね、ちゃんと豚のお肉からできているの。塩漬けにして、長い時間乾かして作るのよ。だからあんなに硬そうに見えるの」


 ​お母さんの優しい説明が、僕の頭の中にすーっと入ってくる。さっきまで完璧だと思っていた父さんのへりくつが、ガラガラと音を立てて崩れていく。そっか、やっぱりお肉なんだ。

 ​僕の世界の常識は、父さんのへりくつによって書き換えられる寸前で、お母さんによって無事に守られたのだった。お母さんの言うことが本当だとわかってホッとした。でも、父さんのウソは、なんだか本当の話よりも少しだけ美味しそうに聞こえた。

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