第18話

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「こ、腰が……っ」


悲鳴を上げる腰に手を当て、廊下の壁を伝いながらスタッフルームへ進む。

三十分ほど厨房の手伝いをしていたのだが、初日で張り切りすぎたのか、突然腰に痛みが走った。

「あたたたた……」と腰をさする僕を見兼ねて、桜季さんが今日は帰るよう言ってくれたのだ。

うう、情けない……。

けれど無理をして明日の仕事に響いた方が迷惑だし、情けなさも倍増だ。

お言葉に甘えて、今日は帰らせてもらうことにした。

晴仁が起きたら湿布を貼ってもらおう……。

スタッフルームのドアを開けると、そこには先客がいた。

壁際に並ぶロッカーに囲まれた部屋の中心にあるソファで寝ている青年の姿に目を瞬かせる。

この店に残っているのはてっきり僕と桜季さんだけだと思っていたので少し驚く。

ソファで横になった青年は、派手な金髪とは対照的に、薄く開いた唇からすぅすぅと可愛らしい寝息を立てていた。

恐らく彼もホストなのだろうが、さっき皆の前で挨拶した時には見掛けなかった、ような気がするが、自分の記憶に自信がない。

元々顔を覚えるのが苦手な上、みんな似た髪形で整った顔をしており、ほとんど話す機会もなかったので、正直なところまだ右京君しか顔の識別ができないレベルだ。

なぜここで寝ているかは分からなかったが、よっぽど疲れているのだろう。

僕は心の中でお疲れ様です、と呟いて彼の横を通り過ぎ、自分のロッカーへ向かった。

なるべく音をたてないよう気をつけて荷物をまとめ、再び彼の横を通り過ぎようとした時、


「うっ……あ……はっ……」


青年の口から苦しげな呻き声が漏れた。

驚いて彼の顔を見ると、顔を顰めうなされていた。

どうするか迷ったが、このまま放っておくのも気が引け、青年に声を掛けた。


「あの、大丈夫ですか……?」


しかし、返事はない。


「あの、具合が悪いなら家に帰って寝た方がいいですよ」


ソファの前に膝をつき、彼の体を揺すらせながら再び声を掛けた。

すると彼は薄く目を開け、こちらを見た。

う、うわ……!

整った顔立ちに加え、寝起きの気だるさも相まって青年は妙な色気を纏っていた。

億劫そうに向けられた寝起きの体温が滲む視線に同じ男ながらもどきっとする。

反射的に芽生えたやましさを誤魔化そうと口を開き掛けたが、それより先に彼が口を動かした。


「ん……分かったから、ちょっと静かにしてろ……」


煩わしそうにそう言うと、彼は僕の後ろに手を回し、そのまま自分の唇へ僕の唇を引き寄せた。

……え? えええ!?

突然の思いもよらない事態にパニックになる。

さらに舌まで口を割って入ってきたものだから、恐慌といっても大げさでないほど僕の頭は混乱した。

な、なぜ、見ず知らずの青年と僕はキスをしているんだ!?

肩口を押して離れようとするが、がっちりと後頭部を固定されて動かない。

ひ、ひぇぇ! だ、誰か!

必死にもがいていると、閉じていた青年の目が開いた。

そして僕と目が合うや否や、吸いつくようにくっついていた唇が嘘のように離れ、体をドンと押し倒された。

ただでさえ疲労で弱っている腰に尻餅は、とどめの一撃だった。


「ああああああ! い、いたたたた!」


僕の叫びに青年はびくりと肩を揺らしたが、すぐに鋭い目で僕を睨みつけてきた。


「何叫んでんだよ! 叫びたいのはこっちだ! 寝込みをテメェみたいな冴えないおっさんに襲われて!」

「え!」


寝込みを襲われたという事実と異なる物騒な言葉に驚く。


「え? いや、ち、違うよ! 君が僕に、そ、そのキ、キスしてきたんだよ」

「はぁ? 寝言は寝て言え。何を好き好んであんたみたいなおっさんにキスなんかするか!」


確かにその通りなので反論できない。

しかし、それでも僕はやっていない。

痴漢の冤罪に巻き込まれたような気持ちだ。

どうにか自分の無実を証明しようかと口を動かすが肝心の言葉が出てこなかった。


「最低だっ。あー、汚ねぇっ」


吐き捨てるように言って、口を丹念に服の袖で拭う青年に、僕は鞄からお茶のペットボトルを取り出した。


「あ、あの、よかったら、このお茶どうぞ。お茶には殺菌効果がありますから」


昔、聞いたことのある知識を引き出して、親切心で彼に差し出したのだが、ぺしりと拳ごと片手で叩かれた。


「テメェの飲み掛けなんかいるかボケ!」

「あ、大丈夫ですよ! 飲み掛けでもペットボトルの中の菌もお茶の成分で殺菌されているらしいですから! この前テレビで実験しているの見ました!」

「そういう問題じゃねぇ!!」


ソファの肘置きをドンと拳で叩く青年に、僕はびくっ! と心臓が飛び跳ねた。


「つーか、テメェ誰だよ? まさか不法侵入じゃないだろうな?」


ギロリと睨まれ、僕は慌ててぶるぶると首を振った。


「ち、違います! ぼ、僕は今日からここで働くことになった……」

「ハッ、馬鹿が。ここはホストクラブなんだよ。不法侵入するならちゃんと下調べをしとくんだな」


彼の中で僕が不法侵入の不審者であることは確定事項のようだ。

うぅ、どうしよう……。

今にも警察に突き出さん勢いの疑いの目に怯んでいると、


「青りんご、大丈夫ぅ? 今さっきすごい悲鳴が聞こえたんだけどぉ、って、あ~!」


僕の悲鳴を聞きつけてやってきてくれた桜季さんが、青年を見てゆったりとした驚きの声を上げた。

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