第26話


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二人の誤解も何とか解け――蓮さんの目にはまだ疑念の色が残ってはいたけれど――、話もそこそこ、蓮さんは病院に行くと言って席を立った。


「一人で大丈夫ですか?」


玄関に向かう蓮さんを追って訊ねた。

昨晩よりはだいぶ顔色はいいので大丈夫だろうが、子供のように抱きついてきたあのあどけない感触がまだ少し体に残っていて、思わず訊いてしまった。


「……バカにしてるのか? ガキじゃあるまいし病院くらい一人で行けるっ」


蓮さんは顔をしかめて吐き捨てた。

確かに成人男性には失礼な質問だ。


「そ、そうですよね、ごめんんさい。蓮さん、今日は休みですか?」

「ああ、休みだ」


蓮さんの返答にほっとする。

プロ意識の高い蓮さんのことだから、体調が悪くても仕事であれば絶対休まないだろう。


「そうですか、よかったです。じゃあ病院に行ったら薬を飲んでゆっくり寝てくださいね」

「っ、うるせぇな。言われなくてもそうする」


鬱陶しそうに舌打ちをする蓮さんに少し怯んだが、もうひとつ気になることがあり嫌がられるのを承知で口を開いた。


「……病院行った後は家に帰れますか?」


返事はなく、黙ったまま蓮さんは靴を履き始めた。

やはり麻奈美さんが待ち伏せている家には帰れないだろう。

でもかといって職場の更衣室で寝ては、せっかく治りかけているのにまたぶり返してしまう。

もう一晩泊まらせてあげたいけれど、晴仁とさっき他人を家に入れない約束をしたばかりで言い出しにくい。

どうしようと思っていると、僕の考えを察したのか、蓮さんが溜息を吐いた。


「……今日くらいはどっか適当にホテルでも泊まるから心配するなよ。あとさ……」


靴を履き終えた蓮さんがこちらに振り返った。


「お前、何が目的なわけ?」

「へ?」


不可解そうに言われ、僕は首を傾げた。


「目的って、何がですか?」

「だからこうして俺に世話を焼く目的だよっ」


理解の遅い僕にイライラとした様子で蓮さんが言った。

けれど、僕は蓮さんの言う目的の意味が分からず戸惑った。


「目的って……」

「何かあるだろ。別に親しくもない俺に優しくするってことは。金を貸してほしいからとか、恩を売りたいとか、弱みを握りたいとか」


蓮さんが侮蔑するように僕を睨みつけた。

僕は彼の突拍子もない例に目を瞬かせた。


「え、そんなこと考えていませんよ。あ、でもそっかぁ、考えようによってはそうもできるんですね。なるほど。全然そんなこと思いつかなかったです」


そんなことが瞬時に思いつくなんてすごいなぁと純粋に感心する。

こういうことが思いつかないから、僕は出世できなかったのかもしれない。

蓮さんは僕の答えに、顔を露骨にしかめた。


「はぁ? じゃあ他にどんな目的があったんだよ」

「いえ、目的とかそんなたいそうなものはありませんよ。ただ、辛そうだったので……」


僕の言動に目的なんてそんな立派なものはない。

大概が行き当たりばったりだ。

辛そうな人がいたら自分にできることをするのは普通だと思うのだけれど、蓮さんは虚を突かれた様に目を見開いた。


「……それマジで言ってんの?」


俄かに信じ難いというように片目をすがめる蓮さんに、僕はなんだか自分がとんでもなく非常識なことを言っているような気持ちになり肩を窄めた。


「す、すみません、頭があまりよくないので、そんなに深い考えもなく連れてきました」


そんな僕をじっと怪訝そうに見ていた蓮さんだったが、大きな溜め息をひとつ零すと僕に背を向けた。


「アホじゃねぇのっ。とんだお人好しだな。絶対損するタイプ」


うっ……。

よく言われる言葉だ。

お人好し。

損する。

それはよく嘲りと共に寄越される言葉だ。

でも、僕は決して自分が損をしたとは思わない。

今回もそうだ。

僕はひとつだって損はしていない。

僕は背筋を伸ばして蓮さんの背中に向かって言った。


「別に何も損してないですよ。むしろ、昨日蓮さんをそのまま更衣室に置いて帰った方が、きっと今『大丈夫かな? 連れて帰っていればよかったな』って後悔しいたと思います」


連れ帰り損ねたことこそ、僕にとってはきっと損だ。


「なので蓮さんはそんなに深く僕の行動について考えなくて大丈夫ですよ。僕の言動にあんまり深い理由とか目的とかないので」


あははは、と軽く笑って言うと、蓮さんが振り向いて怪訝そうにこちらを見た。

不審を通り越して呆れ返っているというような表情にも見えた。


「あー、そうだな。真面目に考えた俺が馬鹿だったわ」


頭を掻きながら、蓮さんが前を向いた。

そしてひとつ大きな溜め息を吐くと、「んじゃ」と手を振ってそのままドアを開けた。

そしてドアが閉まる間際、小さな声だったが、確かに「……世話になった」とぼそりと呟いた。

本当に蓮さんが言ったのか確かめる間もなく、バタンと重いドアが僕らを隔てた。

蓮さんの足音がドアの向こうに遠ざかっていっても、僕はしばらくドアの前に立ち続けていた。

蓮さんが言い残した言葉は、記憶に残すにはあまりに小さく、空耳にも思えるほどだったが、それでも彼は確かに言った。

それは蓮さんが僕に初めて向けた感謝の言葉だった。

僕は温かくなった胸をぎゅっと押さえて微笑んだ。

ほら、やっぱり損なんかしていない。

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