第23話
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思っていたよりもタクシーの料金が安く済んだことにほっと息を吐いて、蓮さんを肩で支えながら自分の部屋へ向かった。
呼吸は相変わらず辛そうで、体の熱はスーツ越しでも感じられるほどだった。
エレベーターを使ったので昇りには苦労しなかったが、それでもほぼ脱力した成人男子を支え続けるのはやはり三十半ばの体力ではきついものがあった。
やっとのことで寝室に辿り着き、ベッドに蓮さんを横たわらせた時には、思わず長い溜め息が漏れ出た。
家主に無断で他人を家に上げるのは少し憚られたけれど、優しい晴仁ならきっと後から事情を説明すれば分かってくれるはずだ。
「蓮さん、スーツのまま寝たら疲れると思うのでよかったら僕のパジャマに着替えてください」
タンスから取り出したパジャマを差し出すと、蓮さんは少し眉根を寄せたけれど、黙ってそれを受け取った。
「汗がすごいですけど、気持ち悪かったらシャワー軽く浴びますか?」
蓮さんは首を横に振った。
確かにこれだけ熱があったらこれ以上無駄に体を動かしたくはないだろう。
でも汗をかいたまま寝るのは体が冷えてかえって悪いような……。
「とりあえず、僕は部屋から出とくので、パジャマに着替えてどうぞ寝ててください」
蓮さんが浅く頷いたのを見てから僕は部屋を出た。
そして洗面所からタオルを三枚と洗面器を持って来て、台所へ向かった。
一枚はお湯で濡らし絞ってホットタオルに。
もう一枚は氷水を張った洗面器にの中へ。
残りの一枚はそのまま。
それらをお盆にまとめて、寝室へ再び向かった。
そしてドアの前で軽くノックをした。
「蓮さん、着替え終わりましたか?」
返事はない。
まさか倒れているんじゃ……。
不安になった僕は「入りますね」と断りを入れてドアを開けた。
僕の不安に反して、蓮さんは着替えを終わらせてベッドに横になっていた。
ちゃんとしたベッドに寝れているからか、さっきより呼吸が落ち着いているような気もする。
僕はほっとした。
そしてベッドのボードにお盆を置くと、洗面器の中のタオルを絞った。
氷水は冷たく、爪の隙間からもキンと冷たい鋭さが染み込んだ。
絞ったタオルを額に置くと、心なしか蓮さんの表情が気持ちよさげに緩んだ気がした。
「ん……」
タオルの冷たさが眠った意識にまで染み込んだのか、蓮さんが薄く目を開けた。
その様子が小さい頃の弟に似ていたので思わず僕は顔を綻ばせた。
「あ、ごめんなさい、起こしてしまって。よかったら、これで汗拭きませんか? 結構拭くだけでも違いますよ」
ホットタオルをお盆の上から取って差し出すと、蓮さんは手を伸ばした。
しかし、その手はタオルではなく、僕の手首を掴んでそのまま自分の方へ引き寄せた。
そしてそのまま僕をベッドの中に引き込んで、ぎゅっと僕を抱きしめた。
「ぅえ、ええ! ちょ、ちょっと蓮さん……!」
びっくりして思わず変な声が出た。
体に巻き付いた腕を何とか離そうとするけれど、びくともしない。
もしかすると、前に間違ってキスをされた時のように、僕を女の人と間違えているんじゃ……!
顔からサッと血の気が引いた。
あの時、僕からキスをしたと誤解して心底気持ち悪がっていたのに、また同じことがあれば同じ誤解を招いてしまうに違いない。
これ以上蓮さんと溝を深めたくない僕は、必死に彼の腕の中から抜け出そうとしたが若さと体格の差はそう簡単に超えられなかった。
また誤解されたらどうしよう、と心配していたけれどそれは全くの杞憂だった。
蓮さんは僕を抱きしめたまま、ぐっすりと眠り込んだ。
僕は自分の自意識過剰な心配に苦笑した。
若い女の子ならまだしも、僕みたいな三十五にもなる男をそう何度も女の子と間違えるはずないよね……。
苦笑と安堵のため息を零しながら、腕から抜け出ようとしたが、蓮さんの腕は相変わらずびくともしなかった。
それどころか、抜け出そうとすれば腕の力が強まるばかりだった。
でもその力は、女の子を逃がさないようにする傲慢な男の力というよりは、母親に縋りつく必死な子どものようだった。
そのいたいけな力に、子どもの頃、風邪を引いた時、隣に母がいないと不安で母のエプロンをぎゅっと握って離さなかったことを思い出した。
僕の大先輩で、仕事に対する誇りも責任も人一倍持っていて、人気ナンバーワンのホスト、それが僕の中の蓮さんのイメージだった。
だから忘れていたけれど、彼はそれでもまだ二十代前半なのだ。
僕が蓮さんと同じ歳くらいの時は、まだ精神的にも経済的にも家族に甘えさせてもらっていた。
そんな成人して間もないような子が、夜の街で、店のナンバーワンとして働いているのだ。
途方もない不安や心細さを覚えることもあるだろう。
体調が悪い時はそういった気持ちはなおさら増長するものだ。
僕は自分の手を蓮さんの背中にそっと回した。
もし蓮さんが起きていたら「気持ち悪いことするんじゃねぇ!」と怒鳴られているに違いない。
それでも僕は、普段から蓮さんの体に張り詰めている緊張と警戒を解き解すようにその背を撫でた。
「大丈夫、大丈夫。大丈夫ですよ……」
蓮さんの背中を撫でていると不思議とそんな言葉が零れた。
無責任な励ましにとられるかもしれないけれど、言っている僕はいたって本気で言葉にできないけれど根拠すらそこにはあった。
穏やかな蓮さんの寝息を聞きいていると、僕もなんだか眠くなってきてゆっくりと目を瞑った。
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