第20話
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「桜季さんは最近誰かの帰りを待つことありましたか?」
晴仁が出張に行って二日目の夜。
皿洗いをしながら、隣に立つ桜季さんに問いかけた。
桜季さんは僕の質問に不思議そうに首を傾げた。
「おれ一人暮らしだからそういうことはないなぁ」
僕が洗ったお皿を乾燥機に仕舞いながら桜季さんが答えた。
「急にどうしたのぉ? あ! もしかしておれと一緒に住んでおれの帰りを待っていたいのぉ? それだったら大歓迎!」
「いえいえそういうことではなくて……」
「お風呂にしますか? ご飯にしますか? それとも僕にしますか? なんて野暮なことはきかないでねぇ。おれは青りんごとお風呂に入った後に、青りんごにご飯をあーんって食べさせてもらって、それから青りんごをいただく流れ一択だからぁ」
そう言ってちょんと僕の鼻の頭に人差し指をあてる桜季さんに、僕はこの冗談にどう反応していいか分からずただ曖昧に笑った。
僕みたいな冴えないおじさんが、新妻のような甘い台詞を口にするなんて冗談でも笑えない。
「あはは、僕がそんなこと言ったらコントみたいですね。僕が言いたかったのは、人を待つって寂しいな、と思って……」
「春巻きさん留守なのぉ?」
「はい、出張で明日までいないんです。いつも家にいるのが当たり前だからいないのがなんだか寂しくて……」
もともと広い部屋だけど、ひとりだともっと広く感じた。
広い空間にはただただ静けさが満ちていて、僕が動かなければ冷蔵庫や蛍光灯の微かな電子音しか聞こえないほどだ。
明日帰ってくると分かっていても寂しいし、待ち遠しい。
そんな気持ちの中、ふと蓮さんを待つ真奈美さんのイメージが脳裏をかすめて、胸が重くなった。
いつか帰って来るか分かっていても寂しい気持ちになるのだから、いつ帰って来るか分からない相手を待つのはもっともっと寂しいだろう。
もしかしたら帰って来ないかもしれないという不安と、今日は帰ってくるかもしないという期待に挟まれて押しつぶされそうな彼女の心情を想像したら胸が締め付けられる思いだった。
「どうしたのぉ?」
黙り込んだ僕の顔を桜季さんがのぞき込んできた。
僕はハッとして首を振った。
「だ、大丈夫です。何でもないです。ただやっぱり一人は寂しいなと思って。特に起きた時に隣に誰もいないと大きいベッドだから余計に寂しくて……」
「え! 青りんご、春巻きさんと一緒に寝てるのぉ?」
しまった!
目を丸くする桜季さんに、僕は自分の失言に気づき慌てて口を塞いだ。
三十五にもなって友人と同じベッドに寝ているなんて引かれてしまうかもしれない。
「あ、いや、一緒に寝ているといえば寝ているんだけど、あの、お金が貯まったらちゃんと僕用のベッドを買うつもりで、それまで一時的に寝させてもらっているだけで……」
弁解というにはあまりにまごまごとした言い訳を連ねる僕を「ふぅん」と言いながら桜季さんが目を細めて見ている。
う……、絶対言い訳くさいって思われてる……。
「青りんごって大胆だねぇ。ベッドでひとりが寂しいなんてぇ」
「え?」
思いもよらない言葉に目を瞬かせる。
「だ、大胆、ですか……?」
「そうだよぉ、だって一人で寝るのが寂しいなんて誘ってるとしか思えないよぉ」
「え!」
どうしてそんな解釈になるのか僕には理解できなかった。
それとも僕の言ったことは、実は桜季さんのような恋愛経験豊富な人たちの中では、秘密の合図みたいなものなのだろうか。
例えばクラクション五回で「ア・イ・シ・テ・ル」というような。
戸惑う僕を置いて桜季さんは続けた。
「じゃあ今夜は青りんごの家に泊まりに行って一緒に寝て上げようかぁ? それともうちに来るぅ? 家主のいない間に家に上がるのも間男みたいなシチュエーションで燃えるけど、自分の家の方が勝手も分かってるし、最初は自分のテリトリーの方がヤリやすいしねぇ」
桜季さんはひとりうんうんと頷きながら話を進めていくけれど、話があまりにあらぬ方向に飛びすぎて僕はついていけていなかった。
「え、えっと、家に招待してくれるのは有り難いんですが、留守を頼まれた身としては家を空けるのは悪いかなぁ、と……」
とりあえず家に招かれたことだけは理解できたのでやんわり断る。
しかし、さすが桜季さんと言うべきか、それで引き下がることはなかった。
「ってことは、青りんごの家におじゃましていいんだねぇ。あはは、何かすごい燃えてきあたぁ」
桜季さんは笑いながら、僕の腰をぐっと自分の方へ引き寄せた。
笑っているのに、その顔はいつものなんだか違う気がして僕は戸惑った。
「えっと、あの、そういうことじゃなくて……」
桜季さんの冗談を訂正しようとするが、笑顔からにじみ出る妙な圧力に気圧されて言葉は喉の奥に逃げかえってしまった。
ど、どうしよう……!
妙な雰囲気に動けないでいると、
「コウさーん! 三番テーブル、ヘルプにお願いしまーす!」
ホールの方から飛びこんできた声に、今まで体に絡みついていた妙な空気が一気に霧散した。
僕は天の助けだとばかりに、「は、はい! ただいま参ります!」と叫んで逃げるように厨房を去った。
厨房から出る時に背後をかすった舌打ちが、本気なのか冗談なのか、確かめる勇気は僕にはない……。
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