第18話
「んん……、うるせぇ……」
まだまどろみの絡んだ低い声で、眠りを妨げられて不機嫌なのが分かった。
蓮さんはゆっくりと体を起こし、辺りを見渡した。
そして自分を起こした僕らの姿を認めると、露骨に顔をしかめた。
「またテメェらかよ。人が寝てるのに大声だすんじゃねぇ」
舌打ちと共に寄越された地を這うような低い声に心臓が飛び跳ねた。
「は、はいっ、すみません!」
「えぇ~、なんでおれらが怒られなきゃいけないのぉ? ここは寝る場所じゃないじゃぁん。普通に考えてここで寝てるレンコンが悪くなぁい? 家に帰って寝なよぉ」
さ、さすが桜季さん……。
人を殺してしまいそうなほど鋭い目で睨む蓮さんに怯むことなく、唇を尖らせて反論する。
相変わらず怖いもの知らずだなぁと苦笑する。
桜季さんの言葉に、蓮さんはさらに眉根を寄せた。
「帰りたくても帰れないんだよ。こいつのせいで!」
蓮さんが僕をギロリと睨みつけた。
突然怒りの矛先が僕に一点集中になり、戸惑いを隠せなかった。
「ど、どういうことですか?」
彼が家に帰れないことと僕がどう関係するのか全く見当がつかなかった。
「どうもこうもねぇよ。……麻奈美が俺の家を捜し当てて待ち伏せしてるんだよ」
「え……!」
吐き捨てるようにして言った蓮さんの言葉に、ドクンと心臓が強く胸を打った。
「えぇ~、ほんとにぃ? うわぁストーカーじゃぁん」
怖いねぇ、とおよそ恐怖とはかけ離れたのんびりとした声で桜季さんが相槌を打った。
「なんでわざわざ家で待ち伏せするのかなぁ。店の前で待ってた方が確実にレンコンに会えるだろうにねぇ」
「数日前までは店の前で待ち伏せしてたらしいが、他のホストに見つけてすぐに追い返したらしい。それで家まで来たんだろう」
暗いため息を蓮さんが吐いた。
その表情は憔悴しきっていた。
「うわぁ、すごい執着だねぇ。警察にはもう連絡したの?」
「……警察を呼ぶほどじゃないだろう。相手は女で、俺は男だ。いざとなればどうとでもできる」
「なら今すればいいじゃん。こんなところでグズグズ寝たり、青りんごに八つ当たりするくらいならさぁ」
「……あ?」
蓮さんの低い声が発せられたと同時に、剣呑な空気が張りつめた。
ごくりと唾を飲み込む。
一発触発な空気に緊張する僕に反して、凶器のような鋭い視線に射刺されながら、桜季さんはなおにこにこと笑っている。
「何が言いたいんだよ、テメェは……」
「え~、はっきり言わないと分からないのぉ。だからぁ……」
気だるげなため息を吐いたと同時に、ガンっ! とドア横のロッカーが歪んだ。
へこんだロッカーの側面には桜季さんの拳が強く握られていた。
拳の隙間からぽたぽたとキウイの果汁が落ちている。
「自分の甘さが招いたことを青りんごのせいにしてんじゃねぇよ。さっさとテメェの失敗はテメェで拭いやがれ」
笑みを消した桜季さんに僕も蓮さんも息をのんだ。
しかしすぐに桜季さんはまたいつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「まぁ、ここで寝るのはぶっちゃけどうでもいいんだけどさぁ、青りんごをいじめるのだけはやめてねぇってこと~。それじゃあ、青りんごは向こうでおれとキウイ食べよぉ」
そう言うと、まだ果汁の滴る右手にキウイを持ちかえて、桜季さんは僕の手を引いた。
「あ、レンコンはこれ食べていいよぉ」
潰れていないキウイを蓮さんに投げて、桜季さんはドアを閉めた。
桜季さんが僕を引いて歩みを進めてしばらくすると、ドアの向こうで何かを殴る鈍い音と舌打ちのような小さくけれど怒りが凝縮された声が響いた。
「あはは怒ってる怒ってる~。さてと、青りんごはおれとおいしいキウイを食べよぉ」
歌い出しそうな声で言いながら桜季さんが厨房へ向かう。
けれど僕は歩みを止めた。
桜季さんも立ち止まって、僕の方を振り返った。
「どうしたのぉ? キウイ嫌い?」
「いえ、キウイは好きです。でも、今は食欲がなくて……」
僕はお腹をおさえて俯いた。
お腹の中はもやもやとした気持ちでいっぱいで、食べ物を受け入れられる余裕などなかった。
僕の心の中を察したのか、桜季さんはスッと僕の手を離した。
「そっかぁ、それなら仕方ないねぇ。今日は早く帰ってぐっすり寝なよぉ」
桜季さんはぐしゃぐしゃとと僕の頭を撫でた。
僕の暗い気持ちを掻き消そうとするような、優しい荒っぽさがそこにはあった。
「……はい、ありがとうございます」
僕は頭を下げてから、パラディゾを後にした。
一度、振り返った時、桜季さんは優しげに微笑んで手を振ってくれていた。
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