最終話 命を預けた夏
トウカとの別れを済ませたと、有史は急いでアパートへと戻ってきていた。早く車を出して確認をしに行かなければ、間に合わなくなってしまう。
しかし、手早く鍵を開けて車に乗ろうとした有史を、呼び止める声があった。
「……昭利?」
「おー、数日ぶり。そんな慌ててどこ行くんだよ」
「お前、仕事は?」
「言っておくけど、サボってないからな。終わらせてきた」
「あー、なるほど。悪いけど飲みの誘いは後にしてくれないか」
「ということは、だいぶ気が向いたってことだな?」
にやりと笑ってみせる昭利に、有史は肩をすくめてみせた。察しがいい奴で困る。
「そういうことで構わないから。今は急いでるんだ、悪い」
「何をそんなに急いでるんだ」
「確認しなきゃいけないことがある」
「確認?」
自分の言葉の真意を探ろうとしているのか、昭利は腕を組みながら何かを思案していた。真面目な顔というよりは無表情に近い、感情の読めない顔だった。
急いでるから早くしてほしいものだが、無視して車を出すわけにもいかない。
「……一応聞いておくけど、その確認とやらが終わったら。お前はどうするつもりだ?」
なるほど。彼の聞きたいことが大体わかった気がする。
「そうだな、確認が終わったら……生まれ故郷で大切な人に線香をあげて……そのあとは、職探しでもするかな。安心しろよ、死に場所の確認なんかじゃない」
そう言うと、昭利は満足そうな笑みを浮かべた。
「そうか。それなら、飲みにいくのは職が決まってからのほうが良さそうだ」
「ああ、そうしよう」
「引きとめて悪かった」
「おう」
話が終わってすぐに背を向けた昭利を見て、有史もすぐ車に乗った。
落ち着いたら、彼に話す作り話の続きを纏めなければならないなと苦笑しながら。
蝉時雨が降り注ぐなか、流れる汗を拭いながら階段を上っていく。
午前中に来たばかりの、山の中にある階段だ。
池に再び身を投じるつもりはない。あくまで、確認をしに来たのだ。
階段を一段踏みしめるたびに、前髪から汗がしたたり落ちる。
それなのに今までほど暑くは感じないのは、きっと、ここ数日間が鮮やかすぎたためだろう。
真澄がいた夏は、いつも暑かった。
二人で傷をなめ合うようにして育ち、あの暑い日にあまりにも幼い約束をした。
離れたあとは、約束を果たすことになんの疑いも持たず、いつしか夢として願うようになった。
そしてひと月前の手紙で、その夢は砕けてしまった。
膨らませ続けた期待という名の風船に針を刺されたように、大事に育ててきた世界が崩壊してしまった。
新しい風船を差し出してくれたトウカには、感謝してもしきれない。
知らないうちに巻き込んでしまった、可哀想な少女。彼女のおかげで、自分と真澄がどれだけ救われたことか。
誰かに割られることなく、小さな風船を自ら空へと飛ばすことができた。それだけのことが、どんなにありがたかったか。
今、自分の手には何もない。
風船が飛んで行った空に、手が届くこともない。
変わらず、眩しい空を眺めることしかできない。
以前までと違うのは、今後は何かが手に入るかもしれないという僅かな期待、それだけだった。
しかし、それだけで人間は生きていけるものらしい。胸を焦がす熱気を感じなくても、いつかまた、そんな暑い日々と出会えるかもしれないと期待するだけで。
有史は一度立ち止まって、空を見上げた。まだ夕方にさしかかったばかりだが、じきに空が真っ赤に染まることだろう。
汗で体にひっついてしまう服が煩わしいが、構うことなく足を踏み出した。
確認を、しなければならない。
したところで、どうかなるわけではない。それでも、自分にとっては重要なことだった。どうしてもこの目で見ておきたかった。
階段の終わりが近づいて、有史はまた足を止めた。残りを上るのは、頭上の空が色づいてからだ。
この場所に来るのは、おそらく最後になるだろう。
隣には誰もいない。愛しい人も、大事な子も。
正直に言えば寂しいなんてものではない。それでもこれが、自ら歩いてきた結果だった。
ぼうっと眺めた空が、徐々に色づいていく。夏の白い雲が、自分の瞳の中でゆっくりと表情を変えていく。そうだ。ゆっくりと変化するものを好きになったきっかけは、こういった空だった。あの子に教えてあげればよかった。
上ばかりを見ていた有史の両脇を、子供の笑い声が追い抜いて行った。はっとして視線を向けると、幼い頃の自分と真澄が、階段の上で手を振っている。
――もういいよー!
二人はかくれんぼの合図のような掛け声で、自分を呼ぶ。頃合いを教えてくれたのだ。
先に広場のほうへと走って行ってしまった二人を追うように、自分も階段の残りを上っていく。一段ごとに、心臓が痛いほどの鼓動を刻む。
似ていると思った。午前中に来たとき、一瞬視界に入ったそれに恐怖してしまったほどに。
木々に縁どられた、小さくなった街並み。あの町の秘密基地からの眺めと、あまりにも酷似していた。
記憶にある、一番綺麗な景色。あの日、真澄の背中越しに見た、輝く町。
あの町を嫌いになれなかったのは、真澄がいたから。あんなに輝いて見えたのも、真澄がいたから。
彼女がいない世界では、彼女に二度と会えない世界では、果たして。
最後の一段を踏みしめて、そのまま広場の中央まで足を進める。数歩先にいた幼い自分達の幻は、有史の姿を見るとまた、笑顔で手を振った。
――さようなら!
そして二人仲良く手を繋ぐと有史に背中を向けて走りだし、空気に溶けるように消えていく。
それを見届けた先に、夕日があった。
有史は西日に目を細め、しかし、すぐにその目を見開く。
「……あ」
視界が、ほんの少しだけぼやける。一度目を閉じて、溢れそうになるものを堪えてからゆっくりと瞼をあげると、僅かに滲んだ涙に夕日が乱反射して、世界がキラキラと輝いて――
「……っ」
そこからはもう、声にならなかった。
立つことすらままならず、その場に崩れるように膝を折った。
声にならない叫びを喉から絞り出して、痛む心臓を掴むように胸を押さえて。
有史はただ、泣き続けた。
綺麗だった。
真澄がいなくなり、トウカを手放した世界は、それでも。
それでも、綺麗だった。
自分はこの世界で生きていく。
大切な人を失ってもなお、美しいこの世界で。
これから先、何年経ったとしても、この数日間を忘れることはないだろう。
あまりにも残酷で、あまりにも眩しすぎた、命を預けた夏を。
命を預けた夏 岩原みお @mio_iwahara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます