第八話 作り話をしよう

 昼間の熱の欠片を残したまま、夜の街は生ぬるい風を運んでいた。

 今日も、太陽がどんな表情で沈んだのかは知らない。いくら寝覚めのよかった日とはいえ、まだ夕日を見る勇気は出せそうになかった。そして夕日が姿を消した今、有史は安心して外に出ている。


 昭利からのメールが届いたのは、水族館から帰ってくる途中だった。

 運転中に見るわけにはいかなかったので公園に着いてから見ようと思っていたのだが、実際にメールを開いたのはトウカを見送ったあとだった。運転しているうちに忘れてしまっていたのだ。

 さあ家に帰ろうと車に向かって歩き出した有史を、再び鳴ったメールの受信音が引き止めたのだった。


 受信箱の一番上にあったメールの中身は「生きてるか?」という短い文字で、その前に届いていたものは「今日にしよう」という、これまた簡潔な一文のみだった。

 意味は分かるものの、あまりにも不親切な連絡だ。一度帰宅してから昭利に電話をかけてみると、彼はちょうど会社の喫煙所で一服しているところだったらしい。勤務時間内にも関わらず、数コールも待たずに出てくれた。


『生きていたか』

「それを挨拶代わりにするなよ」

『はは、お前にはぴったりだろう』

「否定はしないけどさ。で、今日飲みに行くのか」

『ああ、仕事が早く片付きそうでさ、定時にあがれると思うから』

「わかった。終わったら連絡くれ」


 短い会話を済ませて電話をきる。休憩していたとはいえ彼は勤務中で、しかも自分の元職場である。長々と話したい気分ではなかった。


 昭利が仕事を終わらせるまで休もう。

 有史は部屋の壁にかかった時計を見て、まだ少しだけ時間に余裕があることを確認する。イルカショーを見てすぐに帰ってきたため外出時間はいつもより短かったが、列に並んだり人の多い館内を歩き回ったのは、なかなかに疲労が溜まることだった。


 ほんの少しでもいいから、体力を回復しておきたい。念のため、部屋のカーテンはしっかりと閉めておいた。




 メールの受信音で、有史は目を覚ました。少し眠っていたようだが、初期設定の短い音で起きたのだから深い眠りではなかったのだろう。そのなかで、夢は見なかった。

 メールの送り主はやはり昭利だった。仕事終わったから今から行こうという旨の内容に了承の返事を送ろうとして、はっとする。視界の隅で捕らえたのは、カーテンの隙間から零れる光の色。すぐに目を逸らし、完全に日が落ちてからにしてもらうようにメールを打ち直した。

 寝ぼけていたのだろう、危うく夕方に外に出てしまうところだった。仕事を定時で終わらせた昭利には申し訳ないが、こればかりはどうしようもないのだ。




 昭利に指定された店は初めて行くところで、それでも職場の近くであったため、路地裏の一角にある店でも目印さえあれば容易に見つけることができた。


「まったく、完全に暗くなるまで待ってくれって、夏の日没がどれだけ遅いと思ってるんだ?」

「ああ、悪いな」


 少し狭いけれど落ち着いた照明の、昔ながらの居酒屋という雰囲気の店。そのカウンターの隅に座っていた昭利は、最後に会った一ヶ月前となんら変わっていなかった。

 隣に座ると、彼は店主に「とりあえず生ふたつ」と声をかける。


「先に飲んでいればよかったじゃないか」

「一人で飲みたい気分の日でもないのに、俺だけで飲んだって楽しくないだろう」

「ああ、なるほど。今日は俺の話をつまみにってとこか」

「そういうことだ」

「俺は気が向いたらって言ったはずなんだけどな」


 気難しそうな顔をした店主が無言でカウンターに生ビールを置くと、互いにそれを手にとって軽くジョッキをぶつけ、そのまま口へと運ぶ。そのあと適当に注文した料理や酒はどれも美味く、昭利がこの店を選んだ理由がよくわかった。

 大勢で楽しく飲みたいときにこれほど向かない店はないが、男が一人ないし二人で落ち着いて飲みたいときにはこれほど最適な店もないだろう。


 落ち着いた場所と美味い料理があれば、酒も進むものだ。なんの中身もない会話が底をついて腹も膨れる頃には、有史はかなり酔っていた。それは昭利も同じだったようで、彼は頬杖をつきながら冷酒の残りを少しずつ口に含みながら上機嫌に笑みを浮かべている。


「有史、お前そんなに飲むやつだったっけ。俺今日こんなに飲むつもりじゃなかったのに」

「ペースを合わせて飲めと言った覚えはないんだがな」

「人の話を聞こうってときくらい、そいつと同じ量を飲んでいたくなるだろう」

「そんなに酔ってたら、話したところで耳から反対の耳に抜けていくんじゃないか? 今日は諦めたらどうだ」

「ばーか、だからこそだよ」昭利は声をあげて笑った。「今の俺は、なにを聞いても耳から反対の耳に抜けていくんだから、気にせず話すといい。万が一おれの脳みそに記憶が残っていたとしても、お前は酔っぱらってありもしないことを話したとでも思っておくさ」


 どうしてそこまで聞きたがるのかがわからなかった。暇つぶしに他人の話を聞きたがる奴なのは知っているが、こんなにしつこかっただろうか。


「なんでそんなに聞きたいのかって顔してるな」

「……顔に出したつもりはなかったが」

「酔ってるからなのかは知らねーが、わかりやすいんだよ今のお前は。……真面目に働いてた同僚が死んだような顔になって退職したら、まあ心配くらいするだろう」


 驚いたことに、先日の電話は心配してのことだったようだ。そこであんなふざけた電話をするところが彼らしい。

 焼酎が入ったグラスの氷が溶けて、透明な音が控えめに響く。


「あー……酔ったついでに、ひとつをしてやるよ」


 有史がそう零すと、昭利は頷く代わりにお猪口を口へと運んだ。


「ある田舎町に、一人の少年がいたんだ。悪戯ばっかりでどうしようもないガキだったが、彼には仲のいい女の子の幼馴染がいた。周りの大人たちは少年を嫌っていたし、その幼馴染の少女は友達がいなかった。だから、二人はずっと一緒に遊んでた」


 あえて作り話として続けながら、有史は目を伏せて当時を思い出す。ここ最近思い出すのがつらかった景色も、今は酔いに任せることで脳裏に描くことができた。


「色々あって、少年は引っ越すことになった。そのとき、少年は幼馴染の少女と、ある約束を交わしたんだ」

「その色々ってのは、どんなのか覚えているか?」

「……いや」

「じゃあ、

「そうするよ」

「で、約束って?」

「……大人になったら一緒に生きようと、二人は約束をした。そして少年は引っ越した先で大人になった。でも、そこで彼は約束が二度と果たされなくなったことを知る。それどころか、二度と会うことすらできなくなった」


 グラスの中身を飲み干し、有史は溜息をついた。タバコを取り出して火をつけながら、そういえば今朝家を出てから全然吸っていなかったということに気付く。今更一ミリのタバコでむせることはないが、それでも少しだけ、くらりと眩暈のような感覚があった。


「彼にとって、その約束が全てで、世界だったんだ」くらくらとする額に手を当てる。しかし、視界はハッキリとしていた。「なによりも大切な彼女の訃報は、彼を容易にどん底へと突き落とした」


 あの約束に、自分の世界に、多くを望んだ覚えはない。もし彼女が約束を破棄するのなら、それでいいと思っていた。彼女が――真澄が、ただ幸せに生きてくれるのなら。それなのに。

 約束の行方すら分からないまま。何もしてあげられないまま。真澄はいなくなってしまった。


「もしかしたら、亡くなるまでに迎えに行くことができなかったことを、彼女は恨んでいるかもしれないと……彼はそう考えるたびに、恐怖に包まれる」

「……ふーん」


 トンと音がして、視界の端に水の入ったグラスが置かれた。

 額に当てていた手をどけてみると、水を寄越してきたのは昭利だったようだ。


「なるほど……まあ」タバコ火を点けて煙を吐き出し、彼は続ける。「その話の幼馴染は、彼を恨んではいないと思うけど」

「……作り話にそんな真剣な返しをされてもな」

「うるせーな酔ってんだよ」

「そうか」


 店の壁時計を見ると、夜の十時を指していた。もうそんな時間になっていたのかと思いながら、有史は差し出された水を喉に流し込む。酒で火照った頭に、冷たい水が心地よい。

 有史は内心驚いていた。昭利がそんな真面目なことを言い出すとは思わなかったのだ。しかし、それが彼の本当の姿だとしたら。それを見たことは、酔って忘れたことにしておこうと思う。


「だいぶ時間が経ってたんだな」

「俺は明日も仕事だし、そろそろお開きにするか」

「ああ、遅くまで悪かった」

「俺が誘ったんだよ、気にすんな」


 会計を済ませて店の外に出ると、昼間の猛暑の余韻が幾分か和らいだ風が髪を揺らした。それでも冷房の効いた店内が恋しくなるほどの気温はあるようで、隣にいる昭利が「あっついなー」とぼやいている。

 大通りに出ると熱気が増したように感じたが、不思議と不快感はなかった。有史は酔いが完全に冷めてしまう前に早く帰ろうと足を速めようとしたが、昭利はなにかを思い出したように立ち止まってしまった。


「そういばさっきの話、続きがあるんだろう?」

「ああ、詳しい内容は。落ち込んだ彼の前に知らない小学生の女の子が現れて、叶えたいことがあるから手伝えと言うんだ。で、彼はそれに付き合ってあげてるって感じの話だったかな。ま、


 軽い口調で言うと、彼は一瞬呆けた表情をみせたのち、苦笑いを浮かべる。


「はは、そうしてくれ。その彼が犯罪者にならないことを願っとく」冗談と思ったのだろうか。そう言って背を向けた昭利は、ひらひらと手を振りながら有史の家とは反対方面へと歩き出した。「じゃーな、またそのうち連絡するわ」


 それを無言で見送ってから、有史は自分の家へ向かって歩きだす。最後かなり失礼なことを言われた気がするが、そんな趣味はないとわざわざ言うのは面倒だった。




 生ぬるい風が、今は心地良い。僅かに頭がすっきりしたような気がするのは、真澄のことを話したからだろうか。理由はわからないが、なんとなく、今日も夢を見ずに眠れるだろうという確信めいた思いがあった。

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