第05話 僕の病

 大柄な老人が教室に入ってきた。

 吉野よしの淳三じゅんぞう先生だ。どこか飛び抜けた威圧感を持つ人で、気安く話しかけられる雰囲気は一切ない。

 教室はぴたりと静まりかえる。

 吉野先生は有居理紅に一瞥もくれることなく、黙って教科書を開いた。

 先生の担当は古文だ。

 凍りついてしまうことを決めた人類が、日本語の、しかも古文を学ぶことにどれだけの意味があるだろう。だいいち僕は古典文法のルールなんて、とっくに習得してしまっている。

 この世界の人口の9割が、もともと日本という国に住んでいた人たちだ。立地条件によるものなのか、ほかの条件によるものなのかはわからない。だから、古文にまったく需要がないわけじゃないけど……。

 地下時代の人類は、意図的にものごとの進化を遅らせているふしがある。

 いまだに生徒を学校に集めて授業を行うし、ノートも手書き。とても効率的とは言えない。

 これ以上なにかを失ってしまうことへの恐怖心がそうさせるのだろうか。

 昔の人間は、人類を少しでも先の領域に推し進めることを目的として学問を身につけたはずだ。

 いまは違う。

 学問は過去を偲ぶものとなっている。

 といっても、そこに人間の意思は介在しない。

 すべては僕たちを支配するコンピュータ・システムの思し召しだ。


 授業は淡々と進む。

 教室にはちらほら空席があった。

 生徒の数は減り続けている。

 このところ世間では、ものすごい頻度で失踪事件が起こっているのだ。

 このクラスだけでも、始業式から3か月が経過した現在の時点で、すでに5名が欠けている。ひどいクラスでは12名がいなくなっているらしい。

 まるで戦争でもしているみたいな減り方だ。

 じっさいに戦争をしているのかもしれない。

 この閉ざされた世界の【外側】に存在している、何らかの敵と。

 いなくなった生徒たちは、戦力として駆り出されたのだ。

 そんな馬鹿みたいな想像をしてしまう。


 授業の中ごろに、有居理紅が指された。

 有居理紅は先生に指定された教科書のページを、まるまる教室前方のボードに書き写して、そしてそのすべてを品詞分解した。

 平均的な生徒なら10分近くはかかりそうなその作業を、有居理紅はものの2分ほどで、猛然と終わらせた。

 字はとても綺麗で、品詞の分解は完璧だった。

 といっても、問題のレベルはそれほど高くない。

 僕を驚かせたのは、彼女の作業スピードだ。あんなふうに手を素早く、正確に動かすことができる人間を、僕は見たことがなかった。


 ○

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 放課後には、クラブ活動が全生徒に義務づけられている。全人類を凍らせることが決定した今も、このシステムはなくならない。ノスタルジー以外のなにものでもないだろう。

 僕は造形部というクラブに所属している。粘土やら木材やら何やらを用いて、オブジェだとかジオラマだとか、そういったがらくたを生み出すという、時代錯誤で意味もない部だ。終わる世界にふさわしい活動だとも思う。

 顧問は吉野先生。部員は僕と、もう一人しかいない。

 ひとつ上の先輩である沼野ぬまの摩耶まやだ。

 ただし彼女は週に1回も顔を出せば良いほう。学校に来ているのかどうかさえ不明だ。この日も当然のように不参加だった。

 沼野さんには多数の熱狂的なファンかいる。このエンカウント率の低さも、彼女の価値の高騰に拍車をかけている……と鯨井が解説していた。なんだかよくわからない風潮だ。

 最近の僕は造形部での活動中、木を削って飛行機の模型を作っている。

 この地下都市には飛行機なんて存在しないけれど、地上時代のさまざまな書物や映像から、それがどういったものかは誰でも知っている。

 僕は動くものの模型しかつくらない。

 それが動いていたときのことを想像するのが好きだ。

 吉野先生は特に何の指導もしない。いつも教室の隅でデスクワークをしている。

 決められた時間を、静かに二人で過ごす。

 僕も吉野先生も、ひと言も発することなくクラブ活動の時間を終えることが多い。

 だからその日、唐突に吉野先生がつぶやいたのは、とても珍しいことだった。

「雨か……」と先生は言ったのだ。

 地下世界に雨は降らない。先生が言っているのは、壁に映し出された環境映像のことだ。

 気にも留めていなかったけれど、今は草原に雨が降りそそぐ映像が流れていた。

 草原も雨も、実際には見たことがない。

「古典にも、雨に関する記述は多い」

 と吉野先生は続けた。これは本格的に珍しい……と僕は身構える。

 巨漢の老人である吉野先生は、大儀そうに椅子から立ち上がると、壁際をゆっくり歩きながら語った。

「昔の人間は雨が降らなければ作物がとれなかった。雨は川を氾濫させ、多くの命も奪った。雨を愛で、雨を憎み、雨をじっさいに体に浴びて彼らは生きた。我々は雨を知らない。この差は歴然だ」

 どの分野で差が歴然なのだろう? と僕は不思議に思った。けれど、「空から水が急に降ってくるなんて、想像もつきません」と発言するにとどめた。

「そうだな」と先生は頷く。「虹も、現在のように場所と時間を予告して架かるわけではなかった。虹は勝手に現れ、人々は偶然にそれを目にし、それぞれに何かを感じた。我々は、そのようにものを感じることができない」

「それって、何か問題がありますか?」

 吉野先生はしばらく黙って僕を見つめた。それから、雨の映し出されている壁に向き直り、

「問題があるかどうかさえわからない」

 と答えた。


 ○

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 ●


 クラブ活動を終えて教室を出る。中庭の噴水の縁に、いつものように霧川ルルナが腰かけていた。

 いつもと違うのは、隣に有居理紅がいることだ。

「一緒に帰ることにしたの。理紅の家って、ナノの家の近所だよ」

 霧川は、有居理紅を手で指し示しながら言う。

「この時間まで部活やってたの?」と僕は聞く。

「いつものことでしょ」と霧川は不思議そうだ。

「いや、霧川じゃなくて、有居さんが」

「私はルルナが部活やってるところを見てただけ」有居理紅が僕を見て言う。「有居さんじゃなくて、理紅でいいよ」

「うん」

 と僕は頷く。でも次も有居さんと呼ぶと思う。

「理紅が、意外にも美術部には入らないっていうからさ。テニス部に誘おうと思って」

 霧川が有居理紅の脇腹をひじで押す。有居理紅は身をよじって笑う。

「絵は一応プロだからね。でもテニスは無理かな。今日見てわかった。私、体力ないし」

「体力つけるのも目的のひとつだよ」と霧川は真面目な顔で言う。

「どうせすぐ凍るからなあ。ルルナはテニスがうまいんだね。強いの?」

「普通。いっつも3回戦負け」

「何回勝てば優勝なの?」

「5回かな」

「あと2回じゃん」

「最後の2回は、最初の3回の100回分くらい難しいんだよ」

「あー。それ聞いただけで疲れた」

 3人で歩きながら、2人の会話が続く。

 僕は黙って少し後ろを歩いていた。

「ああ、そういえば」急に有居理紅が僕を振り返る。「君の名前を聞いていないな」

「ナノだよ。荻野ナノ」答えたのは霧川だ。「私の恋人なんだ」

「恋人?」有居理紅が驚いたように少し目を見開く。

「恋人」と霧川は頷く。

「この子、まだ子供じゃないか」と有居理紅。

「そうだよ。なにか変?」きょとんとして霧川が言った。

「いや……」有居理紅は僕と霧川を交互に見る。「そうだね。べつに変じゃない」


 そう。

 僕の年齢は11歳。

 子供と言っていい年齢だ。

 あまり自分の歳には興味がない。能力とは無関係の数値だし、そんなものを数えたところで、近い将来、みんな凍りついてしまうことに変わりはない。

 僕は飛び級の試験に合格したから、高校に通っている。クラスメイトは平均17歳だ。本当は19歳の授業に参加したいのだけど、もう少し待たないと、試験を受ける資格が得られない。

 だけどそれを待っているあいだに、僕が凍る順番が来るだろう。


「頭が良いんだね」と有居理紅が僕を見て言った。

「頭の悪さを隠すのが上手なだけだよ」と答える。

「それって、頭が良いのとどう違うの?」

「かくれんぼで、僕は鬼じゃないのに、みんが僕のことを鬼だと思い込んでしまうんだ。でも、僕は鬼じゃない。そういう話」

 僕の言葉を聞いて、有居理紅は霧川に顔を近づけた。

「変わった子だね」

「私の隣にいると、みんな変わって見えるんだよ」霧川は平然と言う。「きっと、私が整いすぎてるからだね」

「なんだそれ」

 出会ったばかりなのに、霧川と有居理紅の会話には、すでに幼なじみみたいな雰囲気がある。

 こういうふうに時間をワープする能力は、とくに女の子によく見られる。近づくのも遠ざけるのも自由自在。造園技法の〈借景〉みたいに、彼女たちは中間の無駄を省くことができるのだ。

 借景と同じく、周りからそう見えるだけで、じっさいの距離は遠いのかもしれないけれど。


 霧川と別れる通路にさしかかった。

「じゃあ私こっちだから。ナノ、ちゃんと送ってあげてね」

 霧川は手を軽く振って、ぐねぐねとねじ曲がった通路に消えた。

「行こうか」

 と有居理紅が僕の手を取る。僕は子供だから、子供あつかいされることには慣れていたけど、引っ越してきたばかりの人に手を引かれて帰るのは、さすがにおかしな話だと思った。

 有居理紅の手は柔らかくて温かい。

 この手は、有居理紅が絵を描くときの直接的な道具だ。自分が、あの気が触れたような絵の一部になったようで、ちょっと不思議な感覚だ。

「ルルナって面白い子だね」

 有居理紅が急に言った。

「うん」と僕は認める。

「かわいいし。もてるでしょう」

「すごい人気だよ」

「少し遠慮がなさすぎる性格だけどね」

「そのおかげで、あんなに慈愛に満ちているんだと思う」

「ふふふ」と有居理紅は笑った。「逆にきみは、人との距離が遠すぎるみたい」

「僕には悪い癖があって……誰彼かまわず軽蔑してしまうんだ。人とは離れていたほうが良い」

「思春期?」

「どうかな」

「きみは凍らないの?」と理紅が言う。

 唐突な問いだった。久しぶりに虚を衝かれる感覚があった。

「みんな凍りつかなければならないんだ。ひとり残らずね」

 そう答えるのが精一杯。

「そのことに納得していないように見えるけど」と有居理紅はさらに追求する。

「凍りたくないんだ、じっさい」僕は観念した。「いちばん最後のターンで凍れたら良いんだけど。できれば凍りたくない」

「どうして?」と有居理紅は小首をかしげる。水色の髪がさらりと揺れた。

 僕は自分の本当の気持ちを言おうか言うまいか迷って、結局、言うことにする。

 こういうイチかバチかの判断は、僕にはとても珍しい。

「終わりを見てみたいんだ」

 体のなかの悪いものを全部吐き出すように、僕はそう言った。

「終わりを?」有居理紅は僕の言葉を口の中で咀嚼する。「見てみたい?」

「そう」

 有居理紅の、僕の手を握る力が強くなった。

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ。人類が滅びそうだから、みんなで凍って、新しい時代を待とうというんだよね?」

「そうだね」

「だけど、そんな時代は来ないと思う」

「そうなの?」

「たぶん。そして、みんなが凍っているあいだに世界は終ってしまう」

「そうなのかな」

「そうだよ。世界は終わるんだ。僕はそれを見てみたい。というより、僕にはそれだけしかないんだ。興味のあることが」

「世界の最後を見たいということだけが、君の望みのすべてなの?」

「きっと僕は病気なんだ。世界のすべてを疑ってしまうし、世界の終わりを見たがってしまう。度しがたいエンドローム患者なんだよ」

「エンドローム?」

「僕の病名。自分で考えた病気だけど」

「思春期だ」

「馬鹿にするなら、もう言わない」

「ごめんごめん」と有居理紅は笑った。「エンドローム。エンドロームね。それって、どんな病気?」

「ものの終わりを見たくなる病気だよ。とても下品な病気さ。自分で言うのも何だけどね。でも僕は、何かが終わるところをまだ見たことがないんだ。ただのひとつも。この世界のものごとは、きちんと終わることなく、途中で薄れて消えてしまうから。だったら、僕たちの知る限りもっとも大きな、この世界が終わるところが見たくなるのって、当然のことでしょう?」

「うーん」有居理紅は唇の辺りに手をやる。「でも私たちって、ぜったいに凍らなくちゃいけないんだよ」

「だから、どうしようかと思ってる」

「逃げる?」

 有居理紅のその言葉に、僕は一瞬、息の根が止まりそうになった。

「考えたことはあるけど……無理だよ」

「逃げようよ」

 有居理紅が足を止める。

 手をつないでいるので、僕も止まらざるを得ない。

「有居さんは……」

「理紅」

「理紅……は、凍りたい人なんじゃないの?」

「ああ、それ誤解」理紅は懐かしいものでも見るような目で僕を見た。「私は凍りたいってわけじゃないんだ。ただ、面白いものに飢えているだけなんだよ」

「面白いものに」今度は僕が彼女の言葉を咀嚼する番だった。「飢えている?」

「飢えている。希求している」理紅の瞳の奥にぎらりと強い光が宿る。「だってこの世界って、ちっとも面白くないでしょう?」

「そうだね。まるで死んでいるみたいに静かだ」

「死んでるんだよ。世界は。とっくに。だから私は絵を描いた。人や世界が生きているような絵を描くことで、何かが変わるのなら。そう願って、この手で直接に世界に触るという、馬鹿げた方法で。私は絵を描いた。でも、ちっとも世界は反応しない。だから諦めた。さっさと凍ることにしたの。次に目が醒めたときに、少しでも面白い世界になっているのならね」

「冷凍睡眠計画が再開したら、今度もいちばん最初に凍るの?」

 僕の問いに、理紅はゆっくり首を横に振る。

「凍るのをやめる。きみと一緒に、終わりを見ることにする。そっちのほうが面白そう」

「本気で言ってる?」

「本気だよ」理紅は少し怒ったように言う。「あさっての日曜、ひま?」

「ひまだけど」

「朝の5時に迎えに行く。君の家に。一緒に逃げよう。逃避行の始まりだ」

「逃げるって、どこに?」

「どこか。逃げながら考える」

 約束とも言えないようなそんな約束を、なぜか僕はしてしまった。

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