第170話 *10* 3月15日土曜日、深夜

 スマートフォンで時刻を確認すれば、深夜三時過ぎを示している。

 こうは喉の渇きを感じて目が覚めた。

 ――やっぱりホテルは乾燥するわね……。

 何か飲むには明かりが必要だ。しかし部屋の電灯を点けると二人を起こす可能性がある。

 妙な誤解もされたくないので、紅は黙ったままそっと部屋を抜け出すことにした。幸い、このホテルはオートロックではない。少し抜け出して、すぐに戻れば良いだろう。

 ――二人がおとなしくしているのは、何か理由があるのかしら?

 もう一波乱あるかと警戒していたが、二人ともそれぞれの布団で静かに寝息を立てている。彼らの布団の様子を見て、紅は自分の寝床を見やった。

 ――あたしが一番、寝相が悪いみたいね……。

 掛け布団を跳ね除け、だいぶ乱れた状態で目が覚めている。家でも同じ状態なので、誰かの仕業ではなく自分が原因なのだろう。

 ――見られていないと良いのだけど……。

 紅は小さく息を吐き出すと、足音を忍ばせて廊下に出た。

 絨毯が敷かれた廊下は適度な明るさを保っている。こんな夜更けに出歩いている人もなく、どこかの部屋からいびきが聞こえてくるくらいだ。

 現在いる六階に自販機は見当たらない。一階で見掛けたのを思い出して、紅はエレベーターに乗り込んだ。そのまま真っ直ぐ一階に降りて、目的の自販機を発見する。財布を取り出し、お茶のペットボトルを購入した。

「ふぅ……」

 よっぽど喉が渇いていたに違いない。ごくごくと半分以上を一気に流し込んだあとで、ほっとひと息つく。あとは戻るだけだ。

「紅ちゃん」

 知った声がすぐ後ろから聞こえて、紅はびくっと身体を震わせた。

「一人になるのは危ないよ」

 振り向くと遊輝ゆうきが立っていた。いつもと雰囲気が違うように感じられるのは、シチュエーションの所為だろうか。

「起こしちゃったみたいですね。すぐに戻ろうと思っていたんですけど」

 フレイムブラッドの気配を追って、迷わずにここに降りてきたに違いない。魔性石の探知を得意とする彼にとっては造作ないことだ。

 ――迎えに来てくれた、と受け取ったりしたら平和ボケし過ぎよね……。

 単独行動をしているときの彼は気を付けなくてはならない。なおさら、一対一ではさらに神経を使う。

 紅の反応に、遊輝は立ち止まったままで口元だけ笑みを作った。

「ふふっ。警戒してくれるみたいだね。素敵な表情だ」

「危険だって警告したのはあなた自身ですよ」

 一歩踏み出すだけで捕らえられてしまうだろう場所まで接近されている。紅の背後には自販機。正面に立つ遊輝から逃げきる余地は、これまでの経験を振り返ってみても存在しない。

 ――詰んでる……。

 緊張で、左手で掴んでいる三五〇ミリのペットボトルに力が入る。

「そうだね。おそらく僕が君の今一番の脅威になるとは自覚してる」

「そう思っているなら、現実にならないように努めて下さい。部屋に戻りましょう」

 戻ろう、と提案するものの紅は動けない。遊輝が動かねば、安全な距離を保てないからだ。

 遊輝の視線がお茶の入ったペットボトルに向けられる。

「ねぇ、紅ちゃん。僕も喉が渇いたよ。お茶、分けてくれない?」

「良いですよ」

 その程度なら許容範囲内だ。手渡そうとする紅に、遊輝が続ける。

「紅ちゃんの口移しが良いんだけどな」

 自分の唇を指して、彼は微笑みながら催促した。

 ――なるほど、何か意図があるだろうとは思っていたけど、そういうことね。

 もちろん、その依頼はお断りだ。

「間接キスで譲歩して下さい」

 身の危険を感じて、紅はペットボトルをふわりと放った。緩やかな放物線を描いて、それは遊輝の手に収まる。彼は楽しそうに笑んだ。

「照れなくても良いじゃない。ふふっ、君があまりにも可愛いから、手本を示してあげる」

 ――それが本当の狙いっ!?

 遊輝はお茶を口に含むと、瞬時に紅との距離を詰めた。

 後ろには逃げられない。横に逃げるには判断が遅過ぎる。

 自販機と遊輝に挟まれた。彼の右手が紅の頬に触れる。顎を捕らえられて持ち上げられると、口付けをされた。

 咄嗟に抵抗を試みた右手は、あっさりと自販機に押し付けられて封じられる。左手で彼の手を払おうとするが、全く役に立っていない。

「んっ……!?」

 彼の体温で温くなった液体が流れ込んでくる。拘束されて吐き出すことも許されず、紅はされるがままに飲み込んだ。

 紅が飲み干したあとも、遊輝は口付けをやめなかった。そのまま深い口付けへと移行する。

 ――ダメ、受け入れちゃ……。

 拒否しなくてはいけないとわかっている。そのはずなのに身体はいうことをきいてくれない。動かせない右手、抵抗が通じない左手。身動きが取れない。

 次第に力が抜けてゆく。全身に宿るフレイムブラッドの力を口付けによって奪われている所為だ。

 くたっと左手が落ちる。力が入らない。立っていることもままならず、自販機に背を預ける。

 ――あたしは……。

 思考まで鈍くなっている。悪い兆候だ。

 遊輝はぐったりとした紅の身体を支えると、やっと唇を離した。不気味なほどに美しい赤い瞳が紅を映す。

「……紅ちゃん、君が僕だけのものにならないなら、僕が君のものになるよ? その柔らかなルビー色の唇で命じてくれればそれでいい。君のそばにいられるなら、君の望むように演じてみせるよ」

 唇を指先がなぞる。

 ――あたしが応えられないことを知っているくせに、どうしてあなたは……。

 これは問い掛けではなく、独白なのだ。答えを聞きたい気持ちと知りたくない気持ちがせめぎ合っているが故の行為。

 自販機に押し付けられていた右手が解放される。彼の左手が首筋をなぞり、胸元に触れた。

「君が欲しい。僕は君を求めている。でもね、同じくらい君に欲してほしいし、求められたいんだ。――抜折羅くんが羨ましいよ」

「…………」

「君と僕は似ている。感性が近いんじゃないかな。だから、君が抜折羅くんに何を求め、どうしてそばに居ようとするのかわかる。胸が苦しいよ。僕は抜折羅くんとは違う人間だ。演じてどうにかなるような差ではないって理解している。彼の代わりには到底なれない。――僕はどうしたら良いの?」

「……先輩。あたしはあなたに演じてほしいとは願わない」

 なんとか絞り出した声が紡ぐ言の葉。

「命令したいとも思わない。――あたしの答えを知っていて、どうしてそんなことを言えるんですか?」

「君が好きだからだよ。こんな気持ちは初めてなんだ。どうしたらいいのか、本当にわからないんだよ。ごめんね。君を困らせたいわけじゃない。傷つけたいわけじゃない。できるなら楽しませたい。もっと喜ばせたい。……矛盾してるよね」

 胸元に置かれていた左手が離れ、腰に添えられると引き寄せられた。抱き締められる。

「あんまり期待させないで。誘惑しないで。君に魅了されている僕は衝動を抑えられないよ。僕に壊されたくなかったら、迂闊なことはしないで、紅ちゃん」

 遊輝の台詞に、紅は静かに頷く。彼を突き動かしているのは自分なのだと、紅は改めて実感していた。

 ――先輩の気持ちは嬉しいよ。でも、あたしは抜折羅ばさらを求めてしまうの……。

 遊輝の腕に込められていた力が弱まる。やがて紅の身体は解放された。今ならなんとか自分の足で立てる。

「……ふぅ。少しは発散できたかな。付き合ってくれてありがとう。君は優しすぎるよ」

 頭を撫でられる。ここで引き下がってくれるとは思っていなかった。

 ――普段なら絶対に押し倒すまではやりかねないのに……。

 期待していたわけではないし、覚悟を決めていたわけではない。ただ、違和感があるのだ、彼の行動に。

 遊輝を見上げていると、彼はふっと小さく笑って、エレベーターの方を向いた。

 ――え?

 そこには一つの影があった。

「――抜折羅くん、どうして助けに入ってあげなかったの? 彼氏だと言うなら、僕を殴ってでも引き離すべきだ。ここで僕が退かなかったら、手遅れになるよ?」

「俺にも非があると思うと責められない」

 抜折羅の顔に表情はなく、声も淡々としている。呆然としているわけではなく、ただ冷静に状況を見ているのだ。

「じゃあ、僕がこの場で紅ちゃんを犯すとしても、君は構わないのかい?」

 遊輝の非難の台詞に、抜折羅は首を横に振る。

「その条件はおかしい。あんたは絶対にそうはしないからだ」

「君は――いや、君たちは狡いよ」

 遊輝が唇を噛んだのが見えた。

「僕はこれで失礼するよ。正気を保っていられそうにない」

 感情を抑えているのがわかる台詞。遊輝は抜折羅の横を通り過ぎると、すぐに扉が開いたエレベーターに乗り込み、立ち去った。

 ――声、掛けられなかった……。

 紅はエレベーターを見つめたまま、その場にすとんと崩れた。身体の制御を取り戻したはずなのに動けない。

「紅」

 抜折羅が駆け寄る。紅は彼を見ることができず、顔を背けた。

「ごめんなさい。あたし、ひどいことしてる。抜折羅にも、白浪しらなみ先輩にも……。蒼衣あおい兄様にも忠告されていたのに、わかってなかったんだわ」

「どうしてお前は俺を責めないんだ? いくらでも自分の正当性を挙げることができるだろう?」

「あなただけが悪いわけじゃないもの。それに、あなたは自身の非を認めている。責めたところで、今起きたことには変わりがないわ」

 片膝をついて顔の高さを合わせた抜折羅を、紅はようやく見た。困惑顔が目に入る。

「……ごめん、抜折羅。胸を貸してくれないかしら。少し……泣きたい」

 抜折羅の返事はなく、黙ったまま彼は紅の身体を引き寄せたのだった。


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