第143話 *10* 12月7日土曜日、午後
一瞬、夢の続きなのかと思った。
「お、おはよう、紅」
気まずそうな
「眠ってしまったあたしに非があるとしても、あなたはあたしに何をしようとしていたのかしら?」
状況が状況だけに、寝ぼけることなどなく思考ははっきりしている。
――抜折羅のことだから、イヤらしい意図はないのでしょうけど……。
紅の目が覚めたときの状況は、次の通りだ。
寝ている間にステーションワゴンから抜折羅の私室に運ばれている。こういうことは以前からあるので、そう驚くことではない。
続いて、ベッドに仰向けで寝かされている。毛布が掛けられていて暖かい。
その上に、抜折羅が乗っている。どういうわけか、彼の手はピーコートのボタンに触れており、脱がそうとしているのだと思われる。
「……単純に、だな。寝にくそうだと思ったから、コートくらい脱がしてやるかと……」
掴まれた手を振り解こうともせず、抜折羅は視線を逸らしてぽつりと告げる。
「ふぅん……それだけ?」
「それ以外に何があるって言うんだ?」
紅の疑いに対し、不思議そうな口調で問い返された。
――この体勢でそれを訊くっ!?
「ん?」
答えを催促するように、抜折羅の目が紅に向けられる。
「あぅ……と、とりあえず、上から退いてもらえないかしら? このままだと身動きが取れないのよ」
抜折羅の手を放して、紅はお願いする。動きが取りづらいのは事実で、ぬくぬくとした毛布が行動を阻害している。彼の位置取りも都合が悪かった。
「それは良いことを聞いた」
口の端が片方だけくっと上がった。意地悪なことを思い付いたときにそんな表情を浮かべているような気がする。
びくっと警戒すると同時に、抜折羅の右手が紅の頬に触れた。すぐに顔も近付いてきて、逃げ場がない。キスをされるのかと身構えるが、彼は目をじっと覗き込むだけだった。
「あの……抜折羅?」
彼の真っ黒な瞳を見つめ返す。ふさふさとした睫毛が数えられそうな至近距離。少しでも動いたら、触れてしまいそうな狭い空間しか紅と抜折羅の間には残っていない。
鼓動が早まる。
「――なぁ、紅?」
たっぷりと時間が経ったところで、抜折羅が問う。
「な、何?」
何を訊ねられるのか、見当がつかない。また何か指摘されるのだろうか。
頬に触れた彼の手が優しく撫でてきて、くすぐったい。
「お前はどんな夢を見ていたんだ?」
ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で問われた。探るような黒い瞳から目は逸らせない。
「そ、それは今見ていた夢ってこと?」
確認すると、彼は頷く代わりに額をくっつけた。
「あぁ。寝言で、俺のことが大好きだと言われたんだが」
――ね、寝言っ!?
まさかそんな台詞を声に出していたとは思わなかった。恥ずかしすぎる。しかも、本人に聞かれるだなんて。
「……えぇ、はい。夢の中でそう言った記憶は残ってますけど……」
ごまかす台詞が浮かばない。黙っていられるような空気でもなくて、紅は正直に答える。
「へぇ……じゃあ、朝の夢の続きでも見ていたのか?」
「つ……続きなんか見ないわよっ!?」
朝の夢の続きとなると、それは自分にとって未知の領域。知識もないのに、夢でその先を知ることなど有り得ない。
否定すると、抜折羅は紅のセミロングの髪をよけて、右耳の後ろに唇を落とす。
「ちょっ……んんっ……」
慣れない感触に、紅は身じろぎする。嫌ではないが、どう対処したり反応したりするものなのかわからなくて混乱する。
「夢の中の俺は、お前にどんなことをするんだ?」
耳のそばで囁かれる台詞。その仕草だけでもぞくりとするのに、台詞の内容にもぞくぞくとさせられた。
「お……教えない。言ったら、その通りのことをするつもりなんでしょ?」
「まぁな。正夢にしてやるのも解決策の一つかと思って」
言って、彼は
「ひゃっ……やめてって。少なくとも、夢の中のあなたはこんな意地悪なことはしないわ。もっと優しいもん」
「ふむ……。それは心外だな。俺はお前に意地悪をしているつもりはないから」
彼の唇が降りてくる。首筋にたどり着くと、チュッと吸われた。ちりっとした痛みとじんわりと身体に響く快さに痺れる。
「やっ……ダメ……」
いつも以上に敏感になってしまっている。夢の影響だろうか。
「あっ……んっ……」
自分の声のはずなのに、別人のもののように色っぽくて戸惑う。声を出さないように集中していると、抜折羅が口付けをやめて再び紅の顔を覗き込んだ。
「ずいぶんと気持ちよさそうな顔をするんだな。夢を思い出したからなのか?」
「違うわよ……ここにいる抜折羅があたしにちょっかいを出すから、こうなったのよ」
呼吸が乱れている。それを隠すのに紅は必死だった。あれだけの刺激で感じてしまったとは思いたくないし、思われたくもない。
そう答えたとき、彼の瞳が揺らいだように見えて、それであることに思い至った。台詞となって、ぽろりとこぼれる。
「ねぇ……抜折羅は、不安なの?」
「いや……」
首を横に振られてしまったが、紅はなおも続ける。
「あたしが抜折羅に何を求めているのか、知りたいって思ったんじゃないの? だから、どんな夢だったのか気になるんでしょ?」
「……悪いかよ」
ばつが悪そうな顔をして、ようやっと抜折羅は上から退いた。のっそりと移動してくれる。
「悪くなんかないわよ。それに、経験のないことを夢で体験してはいないから、安心してよ。夢の中であなたに押し倒されていても、奪われるような事態にはなってないんだから。ね?」
不機嫌になってしまった彼をどうにかしたくて、二度と同じ台詞を言いたくないようなことを口走る。恥ずかしさのあまり適当にぼかしたが、うまく伝わっているのだろうか。
「……俺はお前を押し倒すのか?」
「いや、だって、したでしょ? あたしに」
「……む」
ベッドの端に腰を下ろした抜折羅はしばらく何かを考えているようだったが、長いため息の後に立ち上がった。
「わかった。もういい。紅を信じる。ここは、夢に出てきた男が俺で良かったと思うことにした。これでこの話はおしまい」
「う、うん……」
腑に落ちないが、これでよしとしよう。紅は上体を起こす。
「だが、もし、ムーンストーンを枕元に置いても効果がみられない場合はちゃんと相談してくれよ? また視線を合わせられなくなるのは困るからな」
「了解したわ」
約束することで落ち着くのなら、そうしよう。紅が頷くと、抜折羅は右手を差し出した。
「さぁ、気を取り直して勉強会にするか。補講になるわけにはいかないだろ?」
「う……余裕がある人は本当に良いわね」
現実を突き付けられて、紅はわずかに凹む。試験前の貴重な土日であることを思い出したからだ。
「うまく乗り切れたら、ワシントンからこっちに戻るときに土産を用意してやるよ。だから、そうテンション落とすな」
「はーい」
恋人と一緒に勉強ができるということに、せめてもの幸せを感じよう――紅は抜折羅の手を取りながらそう思ったのだった。
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