第89話 *3* 2007年8月某日、昼

 二〇〇七年八月。

 当時の火群ほむらこうは十歳になったばかりの小学四年生だった。夏休みもまだ前半で、紅は入学以来ずっと同じクラスメートで一番の仲良しであった長月ながつきひかりと繁華街まで買い物に来ていた。

 時刻は昼過ぎ。昼食を終えてファストフード店から出たところで、家族ぐるみの付き合いがあるクラスメート――黒曜こくよう将人まさとの姿を見掛ける。道端で中学生らしい四人の少年たちに絡まれていたのだ。

「また絡まれてる」

 紅は光の手をぎゅっと握る。

「そうですわね……」

 将人は目つきが悪い。それは生まれつきのものだと知っている紅だが、それでも睨まれているように見えるのでおっかない。少し距離を置いていれば大丈夫なのだが、対面してしまうとビクビクしてしまう。そんな態度が彼のしゃくさわるらしく、紅は将人から意地悪をされることが多い。彼の気質が怒りっぽく、言葉遣いが乱暴なこともあって、紅はしょっちゅう泣かされていた。

 だが、紅は将人が苦手なだけで、嫌いではなかった。不器用な人間だとわかっていたから、少しでも心の距離くらいは縮めようと頑張っている。なかなかうまくいかなくて、結局は半ベソをかくことになるのだけども。

「――助けなくちゃ」

 年上の少年たちに促されて、将人がどこかに連れて行かれそうになっている。ここで止めなければ、誰かが必ず怪我をすることになるだろう。将人はきっちりとやり返す人間であり、小学四年生とは思えない恵まれた体格の持ち主だ。十歳ながらケンカ慣れしているため、中学生相手なら一方的に負けることはまずないのだが、傷つけ合うことはよくないことだ。

 紅が勇気を振り絞って一歩踏み出すと、光が紅の手を引っ張った。

「紅ちゃんが行っても危険なだけですわ」

「大丈夫よ。道の反対側なんだし」

 車の往来が多い二車線ある通りを挟んでいる。向かうためには五〇メートルほど離れた信号を渡る必要があるが、そこまで悠長に回っている場合ではない。

 ならば、どうするか。

 紅は通りに向かって一歩出ると、メガホン代わりに口元に手を当てて叫んだ。

「お巡りさんっ! 小学生がカツアゲされそうになってますよっ!」

 狂言である。実際にはお巡りさんの姿などないのだが、こんな台詞を急に耳にしたら、一瞬は狼狽うろたえるだろう。

 案の定、中学生らしき少年の一人の挙動が怪しくなった。将人から視線を外した瞬間、ひっくり返るようにして倒れる。足を引っ掛けて転ばせたのだ。

 やるのか、といった感じで空気が殺気立つ。しかしリーダー格の少年が制して首を横に振った。そして紅たちにチラリと目を向けると、その場を後にした。

「ふぅ。これでよし」

「よしじゃありませんわっ! 何を考えているんですかっ!」

 紅の前に回り込んで、光が説教を始める。肩よりも長い位置で切りそろえられた黒髪が揺れている。

「今できる最善の方法でしょ? 何の関わりもない人間を助けるほどのお人好しではないけど、幼なじみが困っているのを無視するような育て方はされていないの」

「あぁ、もうっ紅ちゃんは……」

 不安げな表情のまま大きく息を吐き出した光は、紅の手を引いて歩き出す。

「今日はもう戻りましょう。欲しい物も買えましたし」

「ちょっと……光っ!?」

 引っ張られながら、将人の方を見る。彼はふてくされた顔を紅たちに向けていたが、立ち去るように別の方向に歩き出す。礼も告げずに去ったのは、無関係であることを装うためか、それとも予期せず助けられたことでプライドが傷つけられたからか。

 ――ま、お礼を言って欲しくてしたわけじゃないし、将人が怪我をしていないならいっか……。

 紅は進行方向に顔を戻すと、光に導かれて帰路についたのだった。

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