第74話 ★2★ 9月17日火曜日、21時過ぎ

 九月十七日火曜日、二十一時過ぎ。

 JR八王子駅からほど近い場所に立つエキセシオルビルの七階。私室にいた抜折羅ばさらは、スマートフォンを耳に当ててコール音がやむのを待っていた。

「……ハロー」

 聞き慣れた女性の声に、安堵感を覚える。相手は赤縞あかしま沙織さおりだ。生活音の後ろで聞こえる音は英語のニュースのようだ。

「ハロー。――今、大丈夫か?」

 英会話の勉強を兼ねて英語で話すことも多いのだが、抜折羅は日本語で問う。

「オーケイ。こっちは丁度朝食の片付けが終わったところだよ」

 向こうも日本語で返してくる。その台詞の中に、気になる単語があった。

 ――朝食の片付け?

 朝食を済ませたところだ、と言われれば基本的にホテル住まいなのだから違和感はない。だが、片付けと言われると引っ掛かる。

「ん? 沙織姉ちゃんは今、どこにいるんだ?」

 珍しい宝石や鉱物の情報を得ては世界中を忙しく飛び回っている彼女である。現在の位置がわからない。

「今はワシントンの自宅。たまには休めって言われたんで、夏休みを消化しようかなってね」

 ワシントンと東京の時差をイメージする。うっかりすると出社の時間であるのだが、休暇中で良かったと思う。抜折羅は話を続ける。

「確かに、姉ちゃんは働き過ぎだ」

「そっかなぁ。真面目に任務をこなしているだけなんだけど。いろんな国を巡るのは楽しいし。――あ、抜折羅がこっち戻って来るのって二十九日だっけ? その日も休みもらっているから、空港まで迎えにいくよ」

 彼女の明るい声に、抜折羅は幸せな気分になる。

「あぁ、うん。ありがとう。嬉しい」

「なかなか顔も合わせないからね。そのくらいの調整はしなくちゃ。――っと、ついつい雑談が長引いてしまったけど、何か用事があって電話してきたんだよね。何だい?」

 言われて、抜折羅は本題を思い出す。手元には一枚の依頼書があった。そこに示された名前を視線でなぞる。

「ワシントンに戻る前の仕事として、一つ案件がきていてさ。俺の記憶違いかどうか気になって、確認がしたいんだ」

「おや、珍しいね。記憶力なら抜折羅の方が上だと思っていたけど」

「人名は覚えるのが苦手なんだ。――沙織姉ちゃんは、バトウミクって名前に聞き覚えがないか? 馬の頭で馬頭ばとう、美しい紅で美紅みくだ。よく施設に遊びに来ていただろ?」

「美紅ちゃんね。抜折羅と同じクラスだった子でしょ? 懐かしい名前だね」

「やっぱり……」

 呟いて、抜折羅は唸る。

「彼女がどうかした?」

 黙ってしまった所為だろう。不安そうに沙織が問う。

「浄化の依頼が来ているんだ。彼女の名前で」

 依頼書に記載された地名も聞き覚えがある場所だ。間違いないのだろう。

「……抜折羅、あんたの所為であるわけがない。気に病むことはないんだよ?」

 沈黙がわずかにあって、沙織の優しい声がする。

「どうかな……。会って訊いてみないとわからないだろ?」

「じゃあ、話を聞いてからくよくよしなさい。覚悟しておくのは構わないけど、今から凹んでいても意味がない。違う?」

 何を考えているのか、沙織にはわかるのだろう。的確な台詞だと抜折羅は思った。

 ――電話して良かったな……。

 抜折羅は小さく笑う。

「……だな。姉ちゃんの言う通りだ。アドバイス、サンキューな」

「どういたしまして。――わたしが抜折羅に姉らしいことをしてあげようと思っても、できることも少ないしね。このくらいのことならいつでもしてやるよ。気軽に頼ってちょうだい」

「うん。頼りにしてる」

 本気で困っているときに頼りたくなるのは赤縞沙織である。身近な年長者というだけでなく、幼少期から付き合いがある人物だからというのもあるのだろう。行く先々で関係を断ち切らざるを得なかった抜折羅には、本当に貴重な存在だ。

 ――大事な人だが……俺は姉ちゃんを石憑いしつきにしてしまった。俺が巻き込んだんだ。それは絶対に忘れないようにしないと。

 抜折羅の親しい人物でありながら魔性石ホープの呪いを受けずに済む方法で明らかなものはただ一つ――それは石憑きになること。魔性の力を浄化したり吸収したりする魔性石を体内に取り込めば、ホープの呪いによって生じたエナジーが不幸を呼び込むのを無効化できる。そうやって対処する他は今のところ確立されていないのだ。

「他に話はある? どんな相談でものるよ?」

「大丈夫だ。姉ちゃんはバカンスを楽しんでくればいい」

「そうかい? ま、何かあれば気軽に連絡ちょうだい。二十四時間体制で構えているからさ」

「あぁ。その台詞に偽りがないことはよく知ってる」

 言って、抜折羅は笑う。電話の向こうの沙織も笑っているようだ。

「じゃあ、これで。何かあったら連絡する」

「了解。そっちは夜だよね。おやすみ抜折羅、良い夢を」

 通話が切れる。静かになったスマートフォンを机に置いた。

 ――せっかく育った場所に行くんだし、墓参りにも行っておくか……。

 アメリカに渡ったのが小学四年生の夏。以来、色々な国を回ることになったが、今回まで一度も日本に戻っていない。そのため、両親の墓参りはずい分と行っていなかった。抜折羅は指を折って思わず何年が経過したのか数えてしまう。

 ――六年振りか。お盆はそれどころじゃなかったが、彼岸の時季だし丁度いいか。

 抜折羅はスマートフォンを手に取り、経路を検索したのだった。

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