第64話 *3* 9月8日日曜日、夕方

 蒼衣あおいからのメールは思っていたよりも早い時間に届いた。こうが待ち構えていると、火群ほむら家のインターフォンが鳴る。紅は階段を駆け下りた。

 玄関のドアを開けると、夕暮れを背景に、穏やかな表情を浮かべた蒼衣が立っていた。家で着替えてきたらしく、私服姿だ。

「怪我の具合は如何いかがですか?」

「あぁ、うん。完治はしていないけど順調に回復しているわよ。振替休日のあとには消えていると思う」

 家族には適当に怪我のことを伏せている。紅がトラブルに巻き込まれやすいことは承知しているらしく、大事に至らなければそれでよしという扱いだ。紅自身が騒ぎ立てなかったこともあり、深く突っ込まれることはなかった。

「学校へは水曜日からですか?」

 月曜日と火曜日は振替休日だ。なので、十一日水曜日からが通常授業の開始日となる。

「えぇ、そのつもり。――で、蒼衣兄様は何の用事なの?」

 文化祭関係で疲れているだろうにわざわざ今日を選んだ理由が知りたい。急ぎの用事なのだろうか。

貴女あなたに届け物です。ちょっと来てくださいませんか?」

「ん?」

 蒼衣が何を届けに来たのかわからない。紅は素直にミュールを引っ掛けて玄関を出る。

 火群家の敷地を抜けて公道に下り立つ。大きなワゴン車が停まる近くで蒼衣は立ち止まった。

「これを貴女に渡したかったのです」

 ワゴン車の後部の扉を開けてくれる。そこにあったのは一台の赤いマウンテンバイクだった。紅は一目見て、それがただのマウンテンバイクではないことに気付いた。

「これ……あたしの自転車!?」

 廃棄にするしかなかったはずのマウンテンバイクが復元されているのだ。車から下ろされたマウンテンバイクに寄ると、まじまじと確認してしまう。塗装もし直されて綺麗になっているのだが、紅は確信していた。蒼衣の様子を窺う。

「喜んでいただけたようで光栄です。千晶ちあきさんに買ってもらった品ということでしたので、出来る限りの手を尽くしてみました。私からの詫びも含んでいます。どうぞ受け取って下さい」

「ありがとう! すごく嬉しいっ!! もう戻らないと思っていたからすっごく感動しちゃった。お祖母ちゃんの自転車、大事にするね。これでまた自転車通学ができるわ」

 思わず蒼衣の手を取り、紅は喜びを伝える。

「貴女のために急がせたので、そう言っていただけると嬉しいです」

 僅かに頬を赤くして、蒼衣が応える。

 そしてそのまま、何も告げずに見つめ合ってしまった。真相を語ってくれるのを待っていたのに、蒼衣はそんな素振りを見せない。

「――あの……紅? いつまで手を握っているつもりですか? 用事も済みましたので、おいとましたいのですが」

 彼からこれ以上話すことはないらしい。話す気がないのだ――そう判断して、紅は蒼衣を真っ直ぐ見つめたままで唇を動かし、言葉をつむぐ。今訊かなければ、話す機会を失ってしまいそうに感じられたのだ。

「ねぇ、蒼衣兄様? あたしには本当のことを話してくれないの?」

「本当のこと、ですか?」

「蒼衣兄様は紺青こんじょうの王とどんな取引をしているの? あたしも〝石憑いしつき〟になる道を選んだから、魔性石と対話できるだけとは違うことくらい、理解している。隠さないで教えて欲しいの」

「…………」

 蒼衣が視線を外した。彼は口ごもる。やはり喋らないつもりのようだ。

 紅は説得を続ける。

「もし、解除条件が無理難題なのであれば、あたしの〝フレイムブラッド〟で〝浄化の炎〟を出せば取り外せるはず。あたしの所為せいで〝石憑き〟になることを選んだのなら、あたしはそうしなくちゃいけないわ。蒼衣兄様、あたしはあなたの役には立てないの?」

 今まではずっと何かをしてもらうだけの関係だった。歳が二つ離れているということもあるし、彼自身が優秀であるため、紅に出来ることは邪魔をしないように気を遣うことぐらいだ。でも、これからは蒼衣の役に立てるのかも知れない。恩を返せる機会なのかも知れない。

 懸命な問い掛けに、蒼衣は紅に視線を戻した。

「〝浄化の炎〟の必要はありませんよ。かなり厳しい取引はしたかも知れませんが、それは私が至らなかったがためのこと。その程度は自分で乗り越えねば、貴女の傍にいる資格などありません」

「制約は? あるんでしょ?」

 〝石憑き〟の特性については抜折羅から簡単なレクチャーを受けている。魔性石によって求めるものや提供してくれる力の度合いは異なるが、おおむね三点の条件が提示され、条件違反時の制限を課されるという。

 まず一つ目は、石憑きになるための契約条件だ。紅の場合は〝フレイムブラッド〟の力を恒久的に欲するかどうかであった。タリスマントーカーとして見出されただけでは、〝石憑き〟にはなれないのだ。

 続いて二つ目は、力を借りるための供給条件だ。抜折羅ばさらたちが言うところの〝使命〟にあたる。抜折羅は他のホープの欠片を集めることがそうだし、遊輝ゆうきは魔性石を集めることだ。紅はフレイムブラッドから、力を求められたら手を貸すように言われている。それぞれの魔性石の望みに基づくものらしい。

 最後の三つ目は、〝石憑き〟から解放される解除条件である。魔性石の望みが達成されるか、それとは無関係となる特殊な条件が提示される。抜折羅の場合は前者で、すべてのホープが回収されれば、彼は〝石憑き〟としての力を失い、使命から解放される。紅のフレイムブラッドは解除条件については明言しなかった。抜折羅に言われて訊ねてみたものの、黙り込んだままである。元々無口な魔性石。今はまだそのときではないのだろうと思うことにした。必要であれば抜折羅に頼んで外してもらうという手が使えるので、紅はのんびりと構えている。

 そして、供給条件が満たされない場合には能力制限とともに反動がくる。抜折羅に与えられる反動は文字通り呪いだ。本人を含め、親しい人間に災厄をもたらす。紅も似たようなものなのだろう、盟約めいやくが破られた場合は力を貸した相手に災厄をもたらすと脅された。

 ――白浪しらなみ先輩は蒼衣兄様を気遣っている様子だった。絶対に何かあるのよ。

 紅が蒼衣の本心を探るべくじっと見つめていると、彼はふっと小さく笑った。

「紅? 私は貴女と一生を添い遂げたいと思っております。ですから、貴女に相応しい人間であるために〝紺青こんじょうの王〟を求めたのです。いつか必ずタリスマントーカーとしての力に目覚める貴女を護るため、私は千晶ちあきさんに交渉しました。その上で父や祖父を説得し、〝紺青の王〟の所有権を譲って貰った。紅が私の知らない世界に行ってしまわないように――そう願い、力を欲した。本当に、それだけなんです。故に、貴女を護れない力なら、自分自身すら不要だと……そういう契約なんですよ」

「不要って、何を言って――」

 蒼衣が思い詰めるととんでもない行動に出る人間だと最近理解した紅であったが、今の台詞もなかなか過激だと思う。動揺せずにはいられない。

「〝紺青の王〟は〝フレイムブラッド〟が暴走した時を想定して調整された魔性石。その使い手が力不足であると見做みなされれば、私は〝紺青の王〟に身体を奪われることになりましょう。ですが、それで構わないと思っているのですよ。――私の覚悟、わかっていただけましたか?」

 苦いものが滲む笑顔でそんなことを言われても、彼の覚悟はわかりたくなかった。怒りが少しずつこみ上げてくる。

「なんで……なんであたしなんかのためにそんなことを決められるのよっ!? あたし、蒼衣兄様とは兄妹みたいな関係でありたかった。あたしはそれだけで充分だったのにっ!!」

 やっと言うことができた。伝えたくて、でも伝えるタイミングを逃していた紅の想い。

 蒼衣は首を小さく横に振る。

「私はそれだけでは満足できなかったのです。我がままを言っているとは思いますよ。貴女の気持ちを考える余裕がなかったことは謝ります。でも、私は貴女に確かめる術を持たなかった。歪んでいると思われても、こうしないと自分を抑えることが出来なかった。すべては貴女への想いが強すぎたからだ」

「兄様……」

「私を異性として認識できないとおっしゃるのならば、そのときが来るまで待ちます。兄ではなく、一人の男として認められるように努力いたします。先走った真似はもうしないと誓います。……ですから、私にチャンスをいただけませんか、紅」

 真剣な眼差し。紅は心が揺れていることに気付いていた。

 ――あたしはこれから先、蒼衣兄様を異性として見る日が訪れるのだろうか……。

 婚約者にされてしまったことに気付いたときにもしっくりとこなかった。キスをされても違和感しかなかった。

 全く想像がつかない。それは相手が蒼衣だからというわけではないようだ。

 ――誰かと付き合うということさえ、あたし、イメージできていないんじゃ……?

 異性と二人で出掛けることに抵抗感はない。実際、抜折羅とも遊輝とも二人だけで会うことはできる。蒼衣に対しても同じだ。その感覚はひかり真珠まじゅと一緒に出掛けるのに近い。

 ――あたしの〝好き〟って気持ちはどこを向いているのだろう。

「あの……蒼衣兄様? どうもあたし、恋愛感情がよくわかっていないのかも知れないんですが」

「……好きでもない男とでもキスできると?」

 蒼衣の指摘に、紅はカチンときた。やはり誤解されている。

「自分からしたキスは一度だけよ。それは状況として必要だったからしただけ。他のはあたしの意志じゃないわ」

 油断や隙があるせいだと言われてしまえば否定はできない。だが、自分が望んだのは一度だけ。それは本当のことだ。

「では、貴女がキスの相手に私だけを選ぶように、努力しましょうか」

「ちょっと待って。どうしてそういう結論にいたれるのか理解できないから」

 しれっと言われたが、そういう問題ではない。紅は待ったをかける。

 蒼衣はにこやかに答えた。

「理解できなくても構いません。私が勝手に目標に掲げただけなのですから」

「いや、冷静に考えたらおかしいでしょう? 受験生が使う努力はそこじゃないわよ」

「そういうときだけ上級生扱いするのは卑怯です。それに、指定校推薦枠をいただいていますから、ほとんど問題はありませんよ」

 さすがは学年首席の生徒会長である。日頃の行いの良さはこういう部分に反映されるのだろう。

「あたしにとっては大問題よっ。困るっていうのがわからないの!?」

「困らせようという魂胆こんたんですので、おおいに困惑してください。私のことで煩ってくださるなら本望ですよ」

「…………」

 蒼衣が折れることはなさそうだ。紅は小さく息を吐き出した。

「……周りの迷惑になりそうなことはやめてよ?」

「えぇ、心得ております。私を誰だと思っているのですか?」

 周りの目が存在するときの蒼衣はみんなが憧れるような振る舞いができる人間だ。厄介なことに、時に起こす大胆な行動も後の弁解でカバーできるのだから、本当に面倒な存在だ。

「そうね。そうだったわね」

 紅が溜め息混じりに頷くと、蒼衣は安心したように微笑んだ。

「これで私は帰りますね。次は学校でお会いいたしましょう。何かありましたら、連絡下さいね」

「うん、わかったわ。――自転車、ありがとう。気をつけて帰ってね」

 互いに短い挨拶を交わす。そのあと、蒼衣はワゴン車に乗り込んで立ち去ったのだった。

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