第40話 *5* 9月2日月曜日、朝

 九月二日月曜日。

 特に進展のないまま宝杖ほうじょう学院は新学期を迎えた。学院主催の夏期講習に通っていたために、紅は久し振りという感じがしない。だが、昇降口に人集ひとだかりができているのに気付いて首を傾げた。何かと思って近付く。

「何、これ……」

 紅が使っている下駄箱が荒らされ、赤いペンキで塗られている。意図的なのだということは、他に同じような被害を受けている様子が見られないことから察することができた。

 モーゼが海を割ってみせたみたいに、急に人が左右に分かれた。その奥にいる人物たちに視線が動く。生徒会執行部――通称ロイヤルブルーの蒼衣あおい遊輝ゆうき瑠璃るりかいがいた。騒ぎを聞きつけてやってきたらしい。

非道ひどいね、これ……」

 現場を確認しながら、遊輝が呟く。彼が赤いペンキに触れれば、彼の指先にその色が移る。

「誰か、目撃者は?」

 瑠璃の問いに答える者はなく、一様に首を振ったり視線をはずしたりしている。

「被害に遭ったのは火群ほむらさんだけですか?」

 感情を抑え、事務的な感じで告げる蒼衣。だが、瞳には怒りが滲む。

「えぇ、そうみたい。ついてないわね」

「ツイてないで片付けていい問題じゃないだろ、それ。悪意に満ちてる」

 怒りを露わにしたよく知る声に、紅は視線をドアの方に向ける。ちょうど登校してきたところのようだ。抜折羅ばさらが人波を掻き分けて紅の近くへと移動してくる。

「誰かが、故意に、紅を狙って、そうしたんだ。売られた喧嘩は買っておいた方がいい。うやむやに処理するくらいならな」

 野次馬どもに向けられる抜折羅の鋭い視線。好奇の眼差しを向ける者、無関係を主張するように無視する者、飽きた様子で立ち去る者、様々な人間が集まっている。

「どうせ近くでこの状況を見ながら、ざまぁみろとか思っているんだろ? こんな回りくどいことしないで、文句の一つくらい面と向かって言えっ!」

 きっぱりと告げる声は廊下にまで響く。周りの反応はない。

「――行くぞ」

 言うと、抜折羅は紅の手を引いて歩き出す。

「ちょっ……何考えてんのっ、抜折羅。犯人を挑発しないでよっ!」

 紅は小声で抜折羅に抗議する。

「次に仕掛けてきたときに捕まえればそんでいい」

「でも」

「――最初にうやむやにしようとしたのはお前だろう?」

 手を引いて先を歩く抜折羅は目を合わせてくれない。

「苛立ってる? あたしのために怒ってくれたの?」

「俺はお前自身にも怒っている。あんなふうなごまかし方を選ぶな。一時の感情を抑えて対応に努めた星章せいしょう先輩や白浪しらなみ先輩に失礼だ」

「それはあたしを特別視しているわけじゃないっていうアピールであって、仕方がないことじゃないの? 二人ともあたしの知人であるのは勿論だけど、生徒会メンバーなんだから」

 夏休み中には何度か会って話をしていたので、その前と比べれば幾分か親密にはなっているだろう。でも、だからといって私情を挟んでよいわけでもなかろう。紅はそう解釈していた。

「だから、誰かが怒らないといけないんだよ。じゃないと、悪質化が進む。あれはお前に向けられた悪意なんだ。自覚しろ」

 抜折羅の目が紅に向けられた。感情がたかぶっているからなのだろうか。彼の瞳が青白い光を宿している。

「はい……」

「とにかく、まずは上履きの調達だな。購買まで買いに行ってこようか?」

 紅の足元に視線が移る。下駄箱が荒らされていたため、靴下だけ履いた状態だ。

「一人で行けるわ」

「いや、一緒にいる。守る約束、忘れたわけじゃないだろ?」

 意外な申し出に、紅は首を傾げる。

「あれはホープに関してだけじゃないの?」

「俺の好きにさせろよ」

 ぶっきらぼうな言い方。だけど、彼がそういう言い方以外の表現を知らないのだということが、なんとなくわかる。

 ――抜折羅は優しい。

「ん……ありがとう」

「礼なら、事件が終わってからだろ」

「違う――今、そばにいてくれてありがとうってことよ。察しなさいよ、唐変木とうへんぼく

「なら、受け取っておこうか」

 並んで歩く。彼とはこうしていたいのだ。

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