41.鏡の迷宮

「ぶっ!?」

 思い切り顔をぶつけて、ディーは変な声をあげた。ついさっきところだったから、完全に油断していた。目に涙を溜めながら、鼻をさする。

 ステフが呆れたように言った。

「気をつけろよ」

「そう言われてもね……」

 遠くの方に見える男の顔に、恨みがましい視線を送る。彼には何が見えているのか、先ほどから的確に回避していた。

 改めて、正面に向き直る。地面や天井も含めて全面鏡張りという、頭の痛くなるような通路が、ずっと先まで伸びているように

「……」

 のだが、手を伸ばすとこつんと何かにぶつかった。

 通路の至る所に、ガラスの壁が設置されていた。ガラスはほぼ完全に透明で、どこにあるかを目で判断するのは非常に難しい。手を伸ばしながら慎重に歩けば、顔をぶつけるようなことは避けられるはずなのだが、つい忘れてしまう。

(集中力が切れてるわね)

 ディーは舌打ちした。自分の姿が四方八方に見える状況というのは、思った以上に気が散る。もっと集中しなければ、とディーは自分を叱咤しったした。今はガラスを見逃しても鼻が痛くなる程度で済んでいるが、そんなのは極めて運がいい方だ。この先どうなるかは分からない。

「まだかー?」

「ちょっと待って」

 待機しているらしいステフが急かしてくる。ここでは、二人が同時に別の道を進まなければならない。

 ディーが四苦八苦しながら先に進むと、やがて鏡の壁の一部に、両開きの白い扉がはまっているのが見えてきた。ようやく目的地を発見して、小さく息を吐く。嫌らしく直前に配置されていたガラスの壁を横に除けつつ、扉の前に立った。

「着いたわよ!」

「おー」

 もう鏡の向こうに見えなくなってしまっているステフの声が、遠くから聞こえてくる。ディーが扉に両手をつくと、奥に向かって勢いよく開いた。ステフの方でも、今頃同じことが起こっているはずだ。これは、対応する扉を二人で同時に押さないと開かない仕掛けになっている。

「……やっとか」

 開いた先は、白い壁に囲まれた通路だった。鬱陶しい鏡地帯をようやく抜けたようだ。

 遠くの方に、同じく扉から出てきたステフの姿が見えた。合流して、通路を先に進む。

「相変わらず、嫌がらせみたいな仕掛けギミックね」

 ディーはうんざりしたように言った。この階層フロアでは、視覚を惑わすような様々な仕掛けが設置されていた。特に鏡に関する物が多く、どっちに進めばいいのか、場合によっては自分が立っている場所すら分からなくなって、延々彷徨う羽目になったこともあった。

「んー?」

 ステフが首を捻りながら言った。

「失敗したら即死するようなのがいいのか?」

「そんなわけないでしょ」

 ディーはむっとして言った。もちろん、今の安全な仕掛けの方が有難いに決まっている。だが、ここの仕掛けにはどことなく悪意を感じて、イライラさせられるのだ。

 それとも、ダンジョンとはそういうものなのだろうか。ダンジョン探索の経験が浅いディーには、判断が付かなかった。

(向いてないのかもね)

 そんなことを思っていると、ステフが出し抜けに言った。

「こういうのがまだまだ続くんだからな、慣れてくれよ」

「分かってるわよ」

 まるで心の中を読んだかのようなその台詞に、渋い顔で返す。

 通路の先は、広い部屋に繋がっていた。中央の奥の方に、姿見のような大きな鏡が二つ、数歩離れた位置に並んで設置されていた。部屋の奥の方には、閉ざされた大きな扉がある。

「なにこれ?」

「さあ」

 ステフが肩をすくめる。

 まずは鏡を無視して扉の前に行ってみたが、押しても引いても開きそうにない。仕方なく二人で右側の鏡を調べたが、特に変わったところのない、普通の姿見に見えた。左側も同じだ。

「それぞれの鏡の前に一人ずつ立つんじゃないの?」

「あー、それだな」

 今までの仕掛けと似た発想だ。二人は左右の鏡にそれぞれ向かった。

「お?」

 二人が姿見の前に立つと、まるで池に石を投げ入れたかのように、鏡面に波紋が生じた。ゆらゆらと揺れる自分の姿と辺りの景色を目にして、ディーは思わず顔をしかめた。ずっと見ていると、酔ってしまいそうだ。揺れは徐々に激しくなり、何が映っているのか判別がつかなくなる。

 不意に鏡面が暗くなったように見えて、ディーは眉を寄せた。いや、気のせいではない。自分が映っているの中央以外は、真っ暗だ。

 次第に揺れは収まってきた。鏡の中では、暗黒の空間の中央に、誰かが一人立っている。服の色からすると、明らかに自分では無いのだが……。

「……誰?」

 ディーは思わず間の抜けた声を上げた。鏡には、見たこともない、いやあるのかもしれないが、記憶にはない男の姿が映っていた。がっしりとした体格の背の高い男で、質が良さそうな服を着ている。

「げっ!」

 隣で上がった声に驚いて、ディーは顔を向けた。もう一つの鏡に映っていたのは、短く切った赤い髪が印象的な女性、というより少女だった。身にまとう服は、襤褸ぼろ切れのように穴だらけだった。ステフは少女の姿を見て、思い切り嫌そうな顔をしている。

(こいつがこんな反応するのは珍しいわね)

 そう思いながら、彼の表情を観察していた。目の前の鏡のことなんて、もう意識の外だ。

 ステフが何かに気づいたように、ぽつりと言った。

「おい、まさかこれ……」

 その途端に、澄んだ音を響かせ、鏡が粉々に砕けた。さすがに驚いて、ディーは顔を手で覆う。だが破片は飛び散ることなく、ゆっくりとその場に落ち、地面に降り積もった。

「え」

 ディーは声をあげる。鏡のあった場所の向こうに、一人の男が立っている。それは、さっき鏡に映っていた男だ。ただし、その顔は憎しみに染まっている。

「気をつけろ、襲ってくるぞ!」

 ステフの言葉に、ディーは反射的に右手でナイフを抜いた。いつの間にか、目の前の男は右手に細身の長剣を、左腕に小さな盾を身に着けている。

 滑るように接近してきた男は、目にも留まらぬ速さで剣を跳ね上げた。その一撃を、なんとか受ける。上から押さえつけているにも関わらず力負けしそうになって、慌てて後ろに跳んだ。

 さらに後ろに下がり、距離を取る。男は剣先を相手に突きつけるようにして、タイミングを計っているようだった。

 その時になってようやく、ディーは対峙する男の姿を思い出した。いつだかの闘技大会の決勝戦で負けた、剣士アインスだ。今までに自分が戦った者たちの中でも、に強い相手かもしれない。さっきの鏡は、過去の強敵を実体化する魔道具だったのだろうか。

(本物より、少しは劣るか?)

 判断力の面でも、剣のはやさでも。だがそれでも、勝てるかと言われるとかなり厳しい。

 ステフの方に一瞬だけ目を向ける。驚いたことに、彼はかなりの苦戦を強いられていた。ナイフを両手に持った少女は、ステフに肉薄し、偽アインスを上回る速度でナイフを操っている。不規則な軌道で縦横無尽に繰り出される攻撃を、ステフは防ぐだけで精一杯のようだった。

 不意に、ぞくりと嫌な予感が背中をかすめ、ディーは偽アインスに向けてナイフを投げた。それと同時に、相手は地面を強く蹴って、こちらに向かって駆け出してくる。が、飛んでくるナイフを処理するために、立ち止まった。

(このままじゃだめだ)

 一対一の二組を続けていても、勝算は薄い。どちらか弱い方を、先に倒してしまわないと。

「ステフ、こっちをお願い!」

 ディーはもう一本のナイフを少女に向かって投げながら、叫ぶ。ステフは面食らっていたが、こちらの意図は理解したようだった。少女が一歩下がった瞬間に、偽アインスの方に駆け出した。

 新たに二本のナイフを抜き、ステフと交差するように走る。少女は迷うように、二人の敵の間で視線を彷徨さまよわせている。

 ディーは一気に敵に肉薄すると、両の刃を閃かせた。難なく防がれたが、織り込み済みだ。二撃目を押し返される勢いで、大きく後ろに跳ぶ。

 少女の視線がこちらに固定されていることを確認して、ディーはゆっくりと後ろに下がった。あとは、少しだけ時間を稼げばいい。いくら偽アインスが強いとは言っても、ステフには敵わないだろう。

 少女が迫る。

 接敵する寸前、ディーは右手でナイフを放ち、即座に次を補充した。少女は避けずに、左手のナイフでそれを弾き飛ばす。左手が大きく開いた。

 走る勢いは衰えない。だがこれで、ある程度敵の攻撃の軌道を限定できた。ディーは左足を大きく引く。右側は攻撃を受け、左は距離を取ってなすつもりだ。

 少女は左手だけで攻撃してきた。斜めに振り下ろされるナイフを、力を込めて弾き返そうと試みた。いくら速くとも、この少女に力では負けないだろう、そう思っていたのだが、

「うそっ!?」

 ディーは悲鳴のような声をあげた。全力を込めたのに、相手の武器は全く揺るがない。逆に、こちらがナイフを取り落としそうになる。刃がこちらの体を切り裂く直前で、なんとか止める。

 左側の攻防は、ディーの予想通りに進んだ。距離をとったおかげで、相手の攻撃はこちらまで届かない。

 さすがに手の長さまで予想を裏切ることはできなかったようだ。こちらの牽制が効いているお陰か、それ以上強引に近づいてもこない

 だが次の瞬間、拮抗は崩れた。少女がさらに力を込めると、ディーのナイフはあっさり押し込まれ、相手の刃の先が肩と首の中間辺りに食い込む。なんとか首への致命傷を免れたのは、必死に抵抗したおかげだ。

 ディーが痛みに顔をしかめた隙に、少女は右足を大きく踏み出してきた。まずい、攻撃が来る。だがふらふらと揺れるナイフからは、軌道が全く読み取れない

 突きで来る。そう見せかけて、少女はナイフを振り下ろし、その途中で急激に軌道を外側に変えた。一度目は防げたものの、二回目はディーの左手を深く切り裂いた。激痛にナイフを取り落とす。

 ディーの危機を救ったのは、ステフの放った魔道具の一撃だった。迫る炎の玉を、少女は後ろに跳んで避けた。

 ちらりと目を向けると、彼は少女に向けて駆け出していた。既に倒されたのだろう、偽アインスの姿は見えない。

「これ使え!」

 ステフはキラリと光る何かを投げてよこした。ナイフを持った右手でなんとか受け取ると、小さな指輪だった。それが何なのか考える暇はない。即座に指に嵌める。

 すると、傷の痛みが嘘のようになくなり、傷自体もみるみる治っていった。ディーは目を見開く。治癒の魔道具なのだろうが、こんな効果の高い物なんて、見たことはおろか聞いたこともない。

「なんでもいいから傷を負わせてくれ!」

 少女に迫りながら、ステフは言った。ディーは慌てて戦いに意識を戻す。今は余計なことを考えている場合ではない。

 ステフは果敢に攻め立てていたが、少女は彼の攻撃をナイフ一本で易々やすやすと防ぎ、かつもう片方で反撃を加えている。実力の差は明らかだ。

 ディーはナイフを拾うと、大きく回り込むように走り、少女の後ろを取った。相手はこちらにちらりとも目を向けない。だが、ステフの攻撃とタイミングを合わせて放ったナイフは、どうやって感知したのか、あっさりと弾き飛ばされた。ディーは唇を噛む。

(この魔道具を信じるしかないか)

 再び両手にナイフを構え、ディーは走り出した。斬られる覚悟でいけば、一度ぐらいは攻撃を当てられるだろう。それで何が変わるのかは分からなかったが、「傷を負わせてくれ」というステフの言葉を信じるしかない。

(ちゃんと治してよ!)

 果たして、どこまでの怪我なら治癒できるのか。例え腕を切り落とされても大丈夫なのか。浮かんだ疑問に答えを出す暇はなく、少女に接近する。

 さすがに意識を向けざるを得なくなったのか、相手の視線が一瞬こちらに向いた。ステフに反撃を加えていた側のナイフを、牽制するように大振りした。

 ディーはそれをあえて無視して、強引に肉薄した。相手のナイフは左肩を大きく切り裂いたが、痛みは全く感じない。体の内部を弄られるような不快な感触にぞわりとしながらも、右手のナイフを閃かせた。

 少女は驚異的な反射神経で回避しようとしたが、ステフの猛攻を防ぎながらでは、さすがに無理があったようだ。ディーの一撃は、相手の背中に浅く傷をつける。

「っ!」

 その途端に、腹部に衝撃を感じ、ディーは後ろに吹き飛ばされた。蹴り飛ばされた、と分かったころには、地面を転がっていた。痛みは無いが、先ほどと同じ不快な感触が腹部全体に広がっていて、吐き気がした。

 素早く立ち上がり、状況を確認する。少女はステフから距離を取り、うなり声をあげている。

 次はどうすれば、そう聞こうとしたディーだが、続いて起こった現象を目にして言葉を失った。

 少女の体が、変貌を始めていた。露出した肌の至る所に小さな盛り上がりができたかと思うと、皮膚を破って黒い鱗のような物が現れた。その数は一気に増え、体全体を覆う。

 一際ひときわ大きな唸り声が、少女の口から発せられた。声は低く濁り、まるで獣のようだった。

 その瞬間、ステフが地面を蹴った。瞬時に距離を詰め、剣を水平に薙ぐ。少女はナイフで防ごうとしたようだったが、その動きは先ほどとは比べ物にならないほど緩慢だ。二人の刃は、わずかに触れ合っただけだった。

 ステフの一撃が、少女の首をね飛ばした。

 血が噴き出る代わりに、傷口から黒い粉のような物が舞う。それは、崩れていく少女の体の一部だった。崩壊は速やかに進み、すぐに何も見えなくなった。それと同時に、部屋の奥の扉が音も無く開いた。

「本物なら、こんな隙は晒さないんだがな」

 ぽつりと言うと、ステフは剣の先を地面につけた。ディーも、深く息をいてナイフを仕舞う。なんとか危機は乗り越えたようだ。

 さっきの少女は誰だったのか。ディーは尋ねようとして、途中で思い直した。ステフの顔に浮かんだ、苦い表情を目にしたからだ。どういう関係なのかは知らないが、聞いてはいけないような気がした。

 その代わりに、開いた左手を突き出しながら、言った。

「こんな便利なもの、どうして使わないの?」

「んー?」

 ステフが目を向けてくる。さっきステフから受け取った指輪が、人差し指にはまっている。デザインは非常にシンプルで、以前にイリーズに着けさせられた薬指の指輪と、一見区別がつかない。

「ああ、それかー」

 ステフは困ったように頭をいた。どことなく不安になるような反応だ。

「副作用がな」

「……もう使っちゃったんだけど」

 ディーは顔をしかめた。気味悪そうに指輪を眺める。

「おっと、まだそれは外すなよ。その程度の傷なら問題ない」

「そう」

 それを聞いて、とりあえずは安心した。まだ少し不快感が残る腹部に手をやる。

 では大きな傷を受けるとどうなるのか。気にはなったが、聞きたくないような気もする。そんなディーの考えを知ってか知らずか、ステフは言葉を続けた。

「その指輪はな、治癒の魔法なんかと違って傷を治すわけじゃない。傷を無理やり塞いで無かったことにしてるだけだ」

「どう違うのよ」

「外したり魔力が切れたりした瞬間に、元に戻る。しかも、付けてる間は傷が治ることはない。既に塞がってる傷は治せないからな」

「……つまり?」

「大きな傷を何度も受けると、外した時に大変なことになる。全部いっぺんにやってくるからな。ま、運が、地獄の苦しみを味わう羽目になるなー」

「ああ、そういうこと」

 ディーは納得したように頷いた。運が悪ければ、そのままショック死することになるのだろう。この魔道具の強力な効果は、それだけのリスクと釣り合うだけの価値はあるが、あまり使いたくないというのも分かる。

「だから、外すのは帰ってからにしてくれよ。今日ぐらいの傷なら死にはしないだろうが、少しは覚悟しといた方がいいぞ」

「……分かったわ」

 その時のことを考えると、憂鬱になるのは確かだ。左手と左肩を斬られると同時に、体が吹き飛ぶほど腹を蹴られるようなものか。いや、考えるのはやめておこう。

 ずっと着けていればいいんじゃないかとちょっと思ったが、あまり現実的ではなさそうだ。受けた傷の量がある一定を超えれば、二度と外すことはできなくなる。メンテするのも大変だし、一瞬でも効果が途切れれば、その時点でお陀仏だぶつだ。

(そもそも、傷を受け続けても大丈夫なのかしら)

 無理やり塞ぐと言っていたが、全身隈なく傷を受けたら、いったいどうなるのか。元の体がもうどこにも残っていない、魔道具で造られたパーツだけの存在となっても、生きていけるのだろうか。

「んじゃ先行くか」

「ええ」

 ディーは不穏な考えを頭から振り払って、ステフの後をついて行った。

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