36.脅威
ぴちょん、という水の音に驚いて、ミルテはびくりと体を震わせた。慌てて通路の前後に目をやったが、動く者の姿は無い。
ほっと息を吐いて、再び歩き出す。手に持った明りが揺れて、影がゆらゆらと揺らめいた。通路はどこもごつごつとした岩壁に囲まれている。
角を曲がるたびに、恐ろしい魔物が待ち受けているのではないかとつい考えてしまう。情報によれば、このダンジョンの魔物はとっくの昔に狩りつくされているはずだし、
ここはダンジョンとは言っても、ほぼ自然の洞窟に近かった。町から数時間という比較的便利な場所にあるにも関わらず、今では訪れる冒険者もほとんどいない。
こつこつという自分の足音と、たまにどこかで鳴る水音が、聞こえてくる音の全てだ。この広いダンジョンの中に、恐らくは自分一人しかいないという事実は、なんとなくミルテの心を不安にさせた。もっとも、魔物がいる方がよっぽど困るのだが。
しばらく進んでいくうちに、道の先から独特の芳香が漂ってきた。それは果実のように甘くもあったが、ありとあらゆる種類を混ぜて濃縮したような香りで、
それを嗅いだとたん、ミルテの顔はぱっと明るくなった。歩調を早め、先を急ぐ。曲がり角を超えたところで、ドーム状の広い空間に出た。
奥には、このような場所に全くそぐわない、色とりどりの花が咲き誇っていた。岩に直接根を下ろしているらしいその花たちは、全て同じ形をしている。よく見ると、どれもまるで絵の具で塗ったかのような原色で、どこか不自然だ。中には、花びら一枚一枚が違う色のものまである。
「え、と……」
どれが要るんだっけ。ミルテは荷物の中から資料を出して、よく確認した。必要以上に採ってはならないと、昔薬草の知識を習った先生に、何度も注意された。
やがて、赤い花だけを選んで丁寧に切り取る。花の色は全く濃淡がなく、完全に均一に見える。やっぱり少し変だ。
何本か取り終わったあと、ミルテは辺りをきょろきょろと見回した。
「……あ」
初めは気づかなかったのだが、壁と天井の境目が曖昧になる辺りに、真っ白な花が何本か生えている。近寄ってみると、目的の花の一つだった。
しかし、あれを取りに行くのは結構大変そうだ。ドーム状の壁は垂直よりもさらにきつい角度で、ミルテにはとても登れそうにない。早々に諦めて、次の場所を目指すことにした。
このダンジョンには、こういった花が固まって生えている場所がたくさんある。ほとんど光も射さないのに、不思議なことだ。魔力の吹き溜まりがどうこうとか聞いた覚えがあるが、ちゃんと理解していない。
花はどれも珍しいものばかりだが、さほど価値が高いわけでもなかった。一応需要はあるものの、ほとんど他で替えが効く。なので、効率よく回らないとろくな儲けにならない。そのくせ、有用なものを見分けるのは結構大変だ。
事前に決めた計画に沿って、群生地を渡り歩く。花が生えているのは、先ほどのような広い場所だけではなく、通路の場合もあった。法則性があるのかどうかは、よく分からない。
魔力が関係するのかな、と考えながら、ミルテは通路の花を採取していた。地面は歩きやすいし、森で薬草を集めるよりよっぽど楽だ。などと思い始めた頃、
「っ!」
水の音が、岩壁に複雑に反射して、辺りに響き渡る。さっきのような、慎ましやかなものではない。ばしゃりという、明らかに大きな物体が、水溜まりに入った音だった。岩が落ちたのでなければ、ミルテ以外の生き物がいることになる。
(うそ、どこから……)
反響を繰り返したためか、音の元が前の方なのか、後ろの方なのかも分からない。前方の道は少し先で直角に曲がっていて、後方は緩くカーブしつつ、二股に分かれている。
「……うう」
意図せず
(明かり……)
手元のランタンに目をやった。音の主が何者かは分からないが、こんなものを持っていたらすぐに居場所がばれるだろう。だが、消せば何も見えなくなる。いや、そんなことより、一刻も早くここを離れるべきだろうか。
「あっ」
どうすべきか決められないでいるうちに、前方の角の先から、大きな白い塊が姿を現した。
それは狼のようなフォルムではあったが、目に当たる部分は毛で覆われていて、また常に半開きにされた口の中には、歯も舌も見えない。奇妙な外見をした、その恐らくは魔物は、足音を全く立てずに近づいてきた。
ミルテは恐怖に身を震わせながら、じりじりと後ろに下がる。今にも飛びかかってきそうな気がして、瞬きすらできない。次第に、魔物との距離は小さくなっていく。
不意に、魔物の動きが止まった。相手の顔は、ミルテのいる場所より、少しだけカーブの内側にずれた位置に向けられていた。もしあれに目がついていたら、まるでミルテの後ろにいる何かを、覗き込むように見ているかのような……。
背中に走った悪寒に引っ張られるようにして、振り返る。視界を埋めるのは、赤、もしくはピンク色の何か。
理解不能な光景に、思考が停止する。だが今までの訓練と経験のお陰か、ミルテの体は、それから逃げる方向に勝手に動き出していた。後から考えたら、こんなに軽やかに動けたのかと自分で自分に驚くほど、自然な動作で跳ぶ。
ぼんっ、という、どこかコミカルな音と共に、すぐ目の前でピンク色が『閉じ』た。後に残ったのは、もう一匹の白い獣。さっきのは、ミルテの体よりも大きく開かれた魔物の口だったということに、ようやく思い至る。
「ひゃっ!」
ミルテの真横を、最初に見た魔物が無音で駆け抜けていく。もう一匹の魔物に体当たりすると、その勢いのまま、二匹とも地面をごろごろと転がった。
再び、
脇目も振らずに、ミルテは走り続けた。足音も立てずに移動できる相手だ、追ってきているのかいないのかも分からないまま、とにかく走った。
やがて、胸が苦しくなってきた頃に、ようやくちらりと後ろを見た。誰もついてきていないようだ。転びそうになりながら、立ち止まる。
「はあ、はあ……」
壁に手をつき、荒い息を繰り返す。足の筋肉が悲鳴を上げていたが、とても座って休む気にはなれなかった。
(なんで、魔物が)
先ほどの恐怖が
早く帰らなきゃ。そう思って初めて、自分が今どこにいるか、全く分からないことに気づく。さっきでたらめに走り続けたせいだ。途中に何度か分かれ道を過ぎたような記憶もあるが、どう通ってきたかなんて全く思い出せない。
「ミルテさん?」
不意に、ぽん、と後ろから肩を叩かれ、ミルテは反射的に振り向いた。勢いに驚いたのか、相手はぽかんとした表情をしていた。
「あ……」
目の前の人物が誰か分かり、小さく声が漏れた。もう何度も会ったことがある、冒険者仲間のリックだ。彼はミルテの
「大丈夫?」
その言葉を聞いたとたん、緊張の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。倒れかかるようにリックに身を寄せ、胸にしがみついた。
「わわっ」
リックは激しく動揺しながらも、なんとか受け止めてくれたようだった。ミルテの腕に、優しく手が添えられる。彼の胸の中で、ぎゅっと目を
恐怖が去り、少し安心できるようになってきたところで、ミルテは自分が今何をしているかを、ようやく意識しだした。かあっと頬が熱くなる。
「ご、ごめんなさいっ!」
足を
「い、いや、べつに気にしなくていいけど……もしかして、迷ってたの?」
気まずそうに視線を逸らしながら、リックが尋ねる。彼の方も、恐らくは自分と同じぐらい、顔を赤くしていた。
「いえ、あ、はい、迷ったのは、そうなんですけど」
よく分からない返事になってしまった。ミルテは一度深呼吸をしてから、改めて答えた。
「魔物が……魔物が急に出てきて」
「へ?」
ぎょっとした表情で、リックがミルテの目を見た。
「ここに魔物がいるの? どんな?」
「えっと……」
記憶の糸を
「うわ、そんなやつがいるんだ。足音がしないなんて、厄介だね」
そう言ったあと、リックは虚空の一点をじっと見つめた。どうしたんだろう、とミルテが思っているうちに、彼は視線を戻した。
「近くには、居ないみたいだけど。多分」
「分かるんですか?」
「……まあ、なんとなく」
経験からの勘だろうか。今までにたくさん魔物と戦ってきたのかなと、尊敬の眼差しで見つめていると、リックは困ったような笑みを浮かべた。
「とにかく、魔物が出るなら早めに帰った方がいいよね。どれだけ強いかも分からないし」
「はい」
ミルテはこくりと頷いて、立ち上がる。二人は地図を出すと、帰りの道のりについて相談した。どうもここは、リックの地図上では端の方、ミルテの地図の範囲からはかなり外れた場所のようだった。
ずいぶん
道を決め、早速歩き出そうとしたリックだったが、最初の一歩で足を止めた。彼は決まり悪そうに顔を歪めると、ミルテの周囲にふらふらと視線をさ迷わせる。ミルテは、思わず首をすくめた。
「え、なにか、飛んでます?」
「あ、いやいや、なんでもないよ?」
彼は慌てたように言うと、すたすたと歩き出した。首を捻りながらも、その後をついていく。
「それにしても、魔物なんてどこから来たんだろうね。前から居たんなら、とっくに誰かが気づいてそうだけど」
「そうですよね……」
ギルドには魔物の情報は無かった。ということは少なくとも、ギルドにそのことを伝えた冒険者は居ないということだ。出会った冒険者が全員やられたというのも不自然だし、それならそれで、何らかの危険があるという噂が立っていそうなものだ。
「まあ、とにかく、早く帰ってギルドに連絡しよっか」
「はい」
ギルドの情報では、ここはまだ魔物も
会話が終わると、周りにあるのは二人の足音だけになった。水の音も、今は聞こえてこない。
しばらく続く一本道を、ミルテは努めて無心になって、リックの後を着いていく。だが、魔物に襲われた時のことは、意図せずとも心に浮かんできてしまう。静かにして耳を澄ませておいた方がいいと思いつつも、思わず話しだした。
「リックさんも、花を取りに来たんですか?」
「あー、うん。ギルドの依頼で……ちょっと待って」
リックは不意に立ち止まると、手を伸ばして通路を遮った。ミルテは少し驚きつつも、彼に従う。
「なにか……」
そう言いかけたあとで、視界の先に現れたものに気づいて、黙る。道の少し先、曲がり角の向こうから、白い塊が顔を覗かせていた。先ほどと、同じ種類の魔物だ。
半身だけを出したその魔物は、どこを見ているのか、もしくは何かを見ているのかどうかすら判然としなかったが、こちらの様子を
「走って!」
突如、リックは声を上げると、ミルテの腕を引いて後方に向けて走り出した。それと同時に、白い魔物も二人に向けて駆けてくる。相変わらず、足音は聞こえない。
(分かれ道、あったっけ)
リックと会ってからは、確か無かった。その先もずっと一本道だとすると、挟み撃ちにされる恐れがある。一人で走っていた時に通った道なのだが、逃げるのに夢中で全く覚えていない。
元々の体力の差と、さっきの疲れとが相まって、ミルテは徐々に遅れがちになっていった。無音で走る弊害なのか、魔物の速度は本物の狼ほどではないようだが、このまま逃げ切れるのかは分からない。二人で戦った方がいいんだろうか。
「あっ」
真っ直ぐな道の遠く先に、ランタンの光に照らされて、白い魔物の姿がちらりと見えた。まだこちらに気づいていないようだが、このまま近づけば時間の問題だろう。
幸い、その手前に横道を見つけて、二人は跳び込んだ。地面と壁が、
ちらりと後ろを見ると、追ってきていた魔物は道の前を通り過ぎて、そのまま駆け抜けていった。速度を落とすミルテに気づいて、リックも一緒に立ち止まる。
少しのあと、どんっ、という音が聞こえてきた。魔物同士がぶつかった音だろうか。さっきもそうだったが、どうやらあの魔物は同族でも襲うようだ。
「助かった、かな」
ぽつりと呟くように言うリック。息を切らせたミルテは、頷くのが精いっぱいだった。
「うーん、この道からも帰れるのかな?」
リックは地図を取り出すと、現在位置を確認しているようだった。ミルテは念のために、横道に魔物が入ってこないか見張っておくことにした。
すると、入り口から少し離れた手前の壁から、何か棒状のものが突き出ているのが目に入った。蔦に覆われていてはっきりとはしないが、ダンジョンの
道の先も少し見ておこうと思って、ランタンを掲げる。道はずっと向こうの方まで真っ直ぐに伸びていて、蔦状の植物は奥に行くほど少なくなっているようだった。ちょうど光が途切れる辺りで、道は広い空間に繋がっている。
ふと、広間との境目に、白くて丸っこい物体が転がっているのに気づく。自分の体より少し大きい。
なんだろう、と数歩前に進むと、広間の中に同じものがたくさん転がっているのが分かる。光に照らされた、一番手前の物体が、もぞりと動いた。そこでようやく正体に気づいたミルテは、慌ててリックのもとへと戻る。
「リ、リックさん」
「どうしたの?」
「奥に、魔物の巣があります。寝てるみたいですけど、たくさんいて」
「えっ」
リックは驚いて、通路の奥に目を向ける。今、光が照らしている範囲には、白い塊は見えなかった。ランタンを持ち上げれば見えるのだろうが、もう一度刺激する気にはなれない。
「と、とにかく、元の道に戻ろう。ここ、地図に載ってないんだよ。書き忘れかも」
言われて彼の手元の地図を確認してみると、確かに、この横道は存在しないことになっていた。良い地図を作るのは、ダンジョンを攻略する上での最重要事項なので、間違っていることは少ないのだが……。
元の道に向かって歩く途中、先ほどのレバーの前を通った。その瞬間、ミルテの頭の中に、ある考えが
「もしかして、これで、開け閉めできるんじゃ」
「へ?」
「えと、このレバーで、この道の入り口を、開けたり閉めたりできるんじゃないでしょうか。もしかしたら、ですけど……」
「あ、そういうことか。ずっと閉まってたけど、最近になって何かのはずみで開いたってこと?」
「はい」
「なるほど、そうかもね」
横道から顔を出して、周囲を確認する。さっきの魔物は、見える範囲には居ないようだった。別の魔物を追いかけていったのだろうか。
「よし、これで戻れるね。また魔物に会わないうちに、さっさと帰ろう」
リックは元々行くはずだった方向に目をやった。だがミルテはそれには答えず、ちらりと後ろを振り返ると、レバーを指さした。
「あの、ここ、閉めていった方がいいんじゃないでしょうか。巣にいた魔物が全部外に出たら、ちょっとまずいです」
ここから町までの距離を考えると、魔物が偶然町まで来てしまう可能性も考えられる。レバーが本当にミルテの思った通りのものかは分からないが、試してみる価値はあるはずだ。
「うーん、確かに……でも、こっちにはレバーは無いよね」
リックが辺りを見回す。近くには、横道を少し入ったところに一つあるだけだ。
「こっち側から動かすには、ちょっと距離が遠いよ。ロープでもあれば、結んで引っ張ればいけるかもしれないけど……いや、引っかけるのも難しいかな。あれ、上げなきゃいけないんだろうし」
二人して、横道の天井に目をやる。あそこにフックがあれば、ロープをかけてレバーを引き上げられるはずだ。だがいくらごつごつした岩盤とは言え、そんな都合のいい角度の突起はなさそうだった。
(ロープは、蔦を結んで作れそうだけど)
レバーに絡みつく蔦に目をやる。壁から伸びてきたのであろうそれは、レバーの先から何本か垂れ下がって、地面にまで達している。
(……?)
どこか違和感を覚えて、ミルテは首を傾げた。垂れ下がって、というよりは、レバーの先と地面を繋いでいるような印象だ。どうしてそう思うのか、よく見てみると分かった。蔦がピンと張っているからだ。
「……リックさん。あのレバーの先から伸びてる蔦って、切れます?」
「こっちからってこと? ナイフ投げはあんまり得意じゃないけど、多分できると思うよ。ちょっと待ってね」
リックはナイフを手に取ると、目標との距離を測り、狙いをつけているようだった。その目つきは真剣で、なかなか
「切っちゃったらいいの?」
「はい、お願いします」
ミルテが答えると同時に、リックは手を素早く振った。ナイフは狙い
「あ」
その直後、レバーの先がゆっくりと上がっていった。ある程度動いたあとで、ぴたりと止まる。すると今度は、横道のちょうど入り口のところで、まるで上下スライド式の扉のように岩壁ががらがらと降りてきて、道を塞いでいく。
全てが完全に止まったあと、二人はさっきまで横道があった場所に向かった。岩壁は周囲と違和感なく繋がっていて、もう見分けが付かなくなっていた。
「これで大丈夫だね」
「はい」
ミルテはほっと息をついた。あの魔物たちは、当分出てこないだろう。既に何匹かは外にいるのだろうが、それは仕方ない。
「じゃあ、今度こそ帰ろっか。でも蔦を切ればいいって、よく分かったね。あれってどうなってたの?」
「え、と」
歩き出すリックに着いていきながら、ミルテはどう説明しようかと少し悩む。
「もともとあのレバーは、手を放すと勝手に上に戻るようになってたんだと思います。でも、成長した蔦が絡んで、下に引っ張られてたみたいです。あの蔦は引っ張る力が強いんです」
「へえー、そうなんだ。ミルテさんは物知りだね」
感心したようにそう言われて、ミルテは少し頬を赤らめた。
「ここの植物は、みんな強いんです。まず、こんな岩ばっかりのところにたくさん花が咲いているところは、あんまりなくて……」
若干早口になりながら、関係があるような無いような話を始める。その後は魔物に会うこともなく、二人の会話、というか(珍しいことに)ミルテの一方的なお喋りは、ダンジョンを出るまで続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます