第85話 夢の中
硬質な壁が、どこまでも冷たく目の前に立ちはだかっている。周囲を囲まれて、ここはとても狭い。湾曲した透明な壁から見える景色はわずかに歪んでいる。息苦しくて胸が苦しくなる。息苦しいのに、出口がない。足元は上下にグラグラと揺れていて、落ち着ける場所もない。
ふと、体が空間ごと大ききく揺れた気がした。目の前の景色がめまぐるしく変わる。体が重く感じた。地面の方向に引っ張られるような。
ようやく揺れが収まった時、ぼくの目の前には、ふたつの大きな黒目が並んでいた。でかい、とにかくでかい。恐怖で体がすくんで動けなくなる。なんとか逃げ出そうと考えるけど、ここには出口がない。
最後の抵抗とばかりに、必死になって体を動かした。そこではたと気がつく。体がなんだか、いつもと違う。下半身がすごく、重くて、不自由に感じる。
恐る恐る下の方に目線を動かしていくいと、足があるはずのところにそれはなかった。まず、青い。青くて、一つしかない。腰から下に伸びるのは二本の脚ではなくて、魚のような、鱗、尾ひれ。
ああ、こんなことが前にもあったな、そう思った瞬間体が内側からひっくり返るような感覚に襲われて、気がつくとぼくは瓶の中で泡になっていた。
パチパチと、炭酸の弾ける音が聞こえる。ぼくは体をどこに預けるわけでもなく、ただ漂っている。自分の体が軽い、全身を何かに包まれている感覚。ここはどこだろう、静かで、とても落ち着く。
向こうから、小さな影が近づいてくる。影はどんどん大きくなって、ぼくのほうへ突進してくる。大きな壁が迫ってくるような衝撃がぼくを襲った。影は大きな人魚だった。人魚は勢いをそのままに、ぼくの手を掴んで、どんどん前進していく。ぼくはその手に引っ張られてすいすいと進んでいく。
彼女が振り返った。顔には覚えがある。ああ、
「まこさん」
ぼくの言葉は泡になって彼女に届いたようだった。彼女の顔が優しくほころぶ。
彼女の大きな尾ひれが滑らかに水を掻き分けている。ぼくは後ろを振り返ってギョッとした。ぼくの下半身にも、尾ひれがついている。
そうか、ここは海の中なのか。不思議と、息苦しいとか、怖いとは思わなかった。
目の前の彼女がぐんぐんとスピードを上げる。ぼくは引っ張られる。
「ねぇ、待って、話したいことがあるんだ」
彼女は人差し指を自分の口元に当てて、微笑む。
母親に言い訳を遮られた子供のような、絶望的な気分が胸を締め付ける。
言いたいことは山ほどあったのに、言葉にならない。ただ彼女の後ろ姿を見ていると胸が苦しくなる。
目の前の水を掻き分けて、彼女は走る。ふっと、彼女がぼくの方を見て、寂しそうに笑った。手首を掴んでいた彼女の手が、離れる。途端に、ぼくは後ろのほうに流されていく。彼女は遠く、遥か遠くをまだ泳ぎ続けている。ぼくも追いつくように必死でヒレを動かすけど、体が思い通りに動かない。
「待って」
叫んだ瞬間海水が口の中に流れ込んできた。
気がつくと、下半身にはいつものように脚が、何事もなかったかのように生えている。ばたばたと動かしてもみっともないだけで、少しも浮き上がることができない。苦しい、苦しい、息が、できない。苦しい、暗い、怖い、こわい、
そこで目が覚めた。ぼんやりとにじむ視界いっぱいに、母のやつれた顔が浮かぶ。
「おはよう」
そう呟くと、母が泣き崩れた。
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