第84話 ふわり、飛んだ

元気になってくれてると思ってたのに。吉澤が消え入りそうな声でそう呟いた。いや、違うんだ、これは、そう言って彼女に近づくけど、

「何が違うの?」

と強い目で見つめられると言葉が続かなかった。彼女の目の奥に深い悲しみが見える。自分がそういう目にさせたんだと思うと、情けなく感じた。

目の奥がじんわりと熱い。背中にゾクゾクっと悪寒が走った。

「違う、海に入ったのは、そういう意味じゃなくて」

ぼくの右手が宙を掻く。ああ、今は水の中にいるよりもずっと体が重く感じる。

「じゃあ、どういう意味があったの?」

「それは、」

足元がぐらりと、揺れた。

水の中にいるみたいに、息が苦しい。

「おしえて」

吉澤の声がくぐもって聞こえた。上目遣いにぼくを見上げる目がぼくの額のあたりを貫いた。ぐにゃりと、地面が歪んだように感じる。世界が回った、そう感じた。しかし実際に回ったのはぼくの体だった。尻もちをついて、とっさに地面をつかんだ右手の感触はとても柔らかい、畳がぐにゃぐにゃと脈打っているように感じる。とうとうぼくはおかしくなってしまったのかもしれない。


駆け寄ってきた吉澤がぼくの上半身を助け起こした。

「大丈夫?」


「ああ、」


肯定の意味も、否定の意味もなく、うわ言のようなものが口から漏れ出た。


「ひどい熱」


額に触れた吉澤の手が冷たかった。

のどが渇く。

「み、水」

吉澤がぼくの口元に湯呑みの水を垂らした。乾いた唇がほんの少し潤った。


畳の上をせわしなく動き回る吉澤の足音が、耳朶から頭蓋に響き渡る。

隅にあった布団を広げる音。

吉澤に促されるまま立ち上がり、彼女の肩を借りて、なんとか布団に転げおちる。


吉澤はオロナインの入っていた戸棚のあたりをがさがさと漁っている。

目を閉じるとぼんやりとした暗闇が視界を覆う。

海の景色をふと思い出した。

夜に海へ入ったのは初めてのことだった。

あれが、本当の暗闇というものなのか。

悪寒が背筋を貫いた。

かけられた敷布団を肩までずり上げ、顔を埋める。

嗅いだことのある、甘酸っぱい匂い。そうか、これは彼女の使っていた、


不意に布団を剥ぎ取られ、吉澤と目が合った。

額にひんやりとした感触。冷却剤か。

ぼくの髪に吉澤が触れる。首筋を這う、細くて冷たい指先。

目を閉じると目の前の暗闇がグニャグニャと形を変えた。

眼球を動かすと奥から鋭い痛みが走る。


「吉澤」

ぼくは彼女の手を掴んだ。

「まこさんも、あの人も海に、」


口の中が熱い。潮水を大量に飲み込んだときのように、体の奥から干上がっていく。


「ぼくと一緒に海に、飛び込んだ」


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