おはよう、おやすみ

第83話 痛みと傷



目が覚めた瞬間、一番始めに見えたのは吉澤の顎のライン。下からこんな風に仰ぎ見たのは初めてだ。耳の下からやわらかな曲線を描く下顎の骨。そよそよと優しい風がぼくの胸元を撫でる。うちわがぱたぱたと音を立てていた。首の角度を少し変えてみたけど、土台がひどく、やわらかい。もしや、これは、膝枕?


「あ、気がついた?」


彼女がぼくの目を覗き込んだ。

痛い、背中が、膝が、足が、頭が、とにかくそこら中が痛い。っていうか、ぼく、全裸じゃん。上体を起こしてハッとした。ぼくは畳の上に寝転んでいたようだ。腰から下にはバスタオルがかかっているが、これは、


吉澤を振り返った。彼女が気まずそうに顔を背けた。耳が赤い。

「い、いや、見てないから、なんにも、見てないから!!!!」

どのようにリアクションすべきかわからなかった。

「ごめん、おれ……。っていうかなんだ、これ、痛い!!」

背中が異常なまでにヒリヒリした痛みを訴えている。どうなっているのか、自分の目で確認しようとするが、首の回る範囲で顔を動かしたところで、全くもって見ることができない。仕方なく吉澤の方を見た。

「背中、す、擦りむいてない?なんか痛いんだけど」

「あ、ええ、赤いです。すりむけてます」

くるぶしにもジンジンとした痛みが走る。こちらは青あざになっていた。ふくらはぎやかかとにも、痛む部分がある。脇の下もなぜか赤かった。

「ああ、痛そう、」

他人事のように吉澤が言う。実際かなり痛む。

「ごめんね、その、のぼせて?航平くん意識が朦朧としちゃったから、ちょっっとパニクっちゃって。とにかくなんとかしようって、思ったんだけど、ママさんはパパさんとまこさん探しに出かけちゃうし、ここには私ひとりだし、もうどうしよう、ってなって、浴室から和室まで、引っ張ってきたもので。ちょっと力が足りなくて、ぶつけたり、あちこち擦ったりしちゃって、ごめんね?」

言いながら彼女は棚からオロナインを取り出した。他人の家なのに、よく場所を把握していたものだ。ふたを開け、薬を手に取ろうとする彼女をぼくは止めた。

「自分でするから。あと、服着たいんで、悪いけど……」

「あ、ごめん、見ないから!!」

そう言って彼女はオロナインの瓶を投げるように手放し、そっぽを向いた。壁にできる限り顔を近づけて息を殺しているけど、ぼくが言いたいのはそういうことではなくて。けれども頼りなげな彼女も背中を見ていると、部屋から出て行け、とも言えなかった。廊下は寒いし、今この家にいる家人はぼくだけだという。部屋から追い出しても、廊下で狼狽えるばかりの吉澤を想像すると、なんだかむしろ申し訳なく思った。

灰色のスエットの上下がぼくの手元にあったので引き寄せてみたのだけど、どうやら下着が足りない。とりあえず上衣を被ってみた。あれ、そういえば頭髪が乾いている。濡れた髪が自然に乾くくらい長い間気を失っていたのかと思ったけど、触った髪はふわふわと柔らかく、ほんのり温かい。まさか、彼女が乾かしてくれたのだろうか。

失神したぼくをここまで運び、髪を乾かし、服を用意し、慣れない他人の家で孤軍奮闘する彼女の姿を想像すると、なんだかいじましかった。さすがに赤の他人の彼女にパンツとって、とは言えなかったので、躊躇したものの、地肌にズボンを身につけた。


「もう大丈夫、なんか迷惑かけたね」

吉澤が顔を赤くしながらこっちを見た。そのまま無言で、テーブルの上の湯呑みを差し出す。中には白湯が入っていた。ポットのお湯を湯呑みに注いだのがここまで冷めるまで、ぼくは失神していたらしい。

「いや、大丈夫、平気、迷惑なんかじゃないから」

微かに震える声でそう言って、小さくなる彼女がなんだか可哀想に思えた。


「そういえば、なんで吉澤がうちに?」

こんな時間に、不思議だった。彼女はえっと、とか言いながら、顔のあちこちの自分の手を行ったり来たりさせると、ふっと息を呑んで、改めてぼくの方を向いた。

「今日ね、航平くんに買ったプレゼント、渡し忘れてたことに気づいて。

まぁそんなのは口実で、ほんとは顔を見たくなって来たんだけど、

家に着いたらなんだかおばさんが慌てててね」


そこで吉澤は声色を変え、母そっくりの口調で、


「航平がいないの、もうすぐ夕飯なのに……


上着も着ないでどこ行ったのかしら」


それから吉澤は急に元の調子に戻って、


それで。航平くん探しをお手伝いすることになって。言い終えるなり、彼女は力尽きたようにがっくりと肩を落とした。


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