第82話 尻尾

「どうかしたの?」

風呂場の外から吉澤が声をかける。

「いや、なんでも。

あ、脱衣所の洗面にコンタクトケースない?ちょっととってくれる?」


「えっと、これかな?」

わかんないけど、と言いながら、扉の隙間から吉澤の白い手が突き出てくる。

「あ、それ。ありがとう」

ぼくは浴槽から体を浮かせてコンタクトケースを受け取った。

空のケースに、それを大事にしまう。

どうしてだろうか、こんなに小さくて、薄くて軽くて、痛いのに。

ひどく愛おしくて仕方がない。

一度見失ったら二度と戻ってこない予感がしたので、キラキラとした鱗はしっかり空のケースの中に収めた。メタリックな輝き、ぼくはいつかどこかでそれを目にしたことがあったように思ったんだけど、いつのことだっただろうか。


ケースを脇に置き、思い切りよくシャワー被った。

熱いシャワーがリンスを流してくれる。

「まこさんの姿が見えないって、お母さんが」

ふいに、吉澤の声が浴室に響いた。

「あぁ、あ」

頭の中をさっきの光景が蘇る。海の中に消えていった彼女。助けられなかった。

彼女のことを話そうとしたら、胸が苦しくて、声に詰まった。

廊下の方でドタンバタンと音がして、やがてしんと静まり返った。

吉澤がふと浴室に顔を出す。

「まこさん探しに行ってくるって、大丈夫かな」


違うんだ、彼女は、もう、


立ち上る湯気が鼻腔を満たした。

頭がクラクラした、のぼせたのだろうか。


彼女はもう、帰ってこない。


目の前をマリンブルーの大きな尻尾が横切った、気がした。




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