第72話 海の底に馳せる


「で、今日はなにを買ったの?」

 吉澤の前の皿はすっかり綺麗になっている。ぼくはのろのろとミートドリアを口に運ぶ。猫舌だから、全然食べ進められない。

「今日はね、ちょっと有名どころを探してみました」

 吉澤のショッピングバッグから、書店の名前の印刷されたビニール袋が取り出される。今日は吉澤に誘われて、ショッピングモールに買い物に来ていた。ここのモールの書店は、この近辺一番の売り場面積がある。品揃えも豊富で見ていて飽きない。ぼくは吉澤と二手に分かれて本を探していた。絵本と言ってもかなりバリエーションが豊富で、古典ものから教育もの、図鑑っぽいのから、哲学入門書まで。どれを選んでいいのか目移りしてしまう。結局ぼくは植物のミニ図鑑を一冊選んだだけだった。

 でも、吉澤はさすが慣れていて、短時間でもしっかり本を選べたみたいだ。

「最近の絵本は、大人にも需要があるみたい。有名な作家さんが参加してたり、内容も子供向けには限らないみたいだね」

 袋に封をするテープを丁寧に剥がし、彼女は中身をテーブルの上に出した。

「シンドバッドか、懐かしい」

「やっぱり男の子はこういうの好きなのかな?」

 私はやっぱりこれ。そう言って吉澤が差し出したのは、ちょっと大きめの、人魚姫の絵本だった。刺繍糸やビーズだろうか?挿絵といよりも、作品のようだ。額縁に入れて飾ってあっても見劣りしないようなイラストが広がる。

「完全に自分の趣味で選んじゃった」

 照れるようにはにかむ彼女に、ああ、と言葉を続けようとしたけど、途切れてしまった。


 人魚を見たことがある、と言ったら、彼女はどんな顔をするだろうか?

 信じてもらえず、嘘つき扱いされてしまうかもしれない。

 雪女の話が、ふっと頭をよぎった。誰かに話したら、そのときがお前の最後だ。雪女はそう言って男を脅したけど、ぼくはついぞあの人魚の声を聞いていない。


「ねえ、吉澤」

「うん?」

 なかなか食事の進まないぼくを見かねたのだろうか、彼女はメニューのデザートページを眺めている。

「昔みんなでさぁ、打ち上げられたウミウシを拾って数を競ってたよね」

「ふふふ、あったね、そんなことも」

「あんな大量のウミウシ、いったいどこから湧いて出たんだろうな」

「それはやっぱり、海の底だよ」

 海の底、か。


「私絵本って好きなの。自分ではいけないようなところの絵を見ていると、なんだか幸せな気分になるんだ。パリの空、タヒチの海、雪山の雪原。

 特に海って、表面からは想像もつかないような広さでしょ?

 もしかしたら絵本に出てくるような不思議な生き物も実在するのかも、

 なんて考えてたら楽しくなっちゃう、

 嫌なこともどーでも良くなるっていうか」


 ああ、そうだね、とぼくは頷いた。

 結局、人魚の入った瓶の話はできなかった。もしかするとあれはただの夢だったのかもしれない、最近ではそんなことすら思える。

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