第62話 君の声が聞きたい

 昼下がり、窓から射し込む光が温かい。ぼくは部屋に掃除機をかける。宙に舞ったほこりが陽の光に照らされてキラキラと光っている。それをまこさんが興味深げに見守っている。

 いつの間にかぼくも彼女のことをまこさんと呼ぶようになっていた。名前がないのはやはり不便だし、他人がつけた名前なので恥ずかしさもあまり感じない。彼女、まこさんは、しばらく掃除機の軌跡をじーっと眺めていたけど、今は飽きたのか、ベッドに寝転がって絵本をパラパラとめくっている。気がつけばぼくの本棚は絵本や女性向けファッション誌などに占領されていた。大半が吉澤の置いていったものだ。

「おもしろいの?」

 掃除機のスイッチを切って聞いてみた。彼女はうんうん、と頷く。ふうん、と返事をしてぼくはまた掃除機をかける。部屋が終わったら次は廊下。そして階段。延長コードを駆使しながら、なんとか家中をくまなく周る。

 階段は危険だ。少し気をぬくと掃除機ごと滑り落ちそうになる。特にこの家の階段は段差が大きく、面積が狭いので要注意だ。それが終わったら、今度はモップをかける。そろそろ家事もだいぶ板についてきただろうか。自画自賛しながら、ぼくはモップをほこりを吸う機械にかけた。


「お茶でも淹れるか」


 誰に向けるでもなく呟いた。最近独り言が増えてきた気がしてすこし怖い。話せない女性と暮らしているからだろうか、それとも孤独に耐えかねているのだろうか。ぼくには判別がつかなかった。

 ポットから急須にお茶を注いでいると、いつの間にかまこさんが背後に立っていた。

「今お茶にするからね」

 奇しくも時計は三時を指しており、間食にはいい時間だった。戸棚を探すとマフィンがあったので、それをいただくことにする。ぼくたちは向き合って黙々と食べた。

 そういえば。目の前の彼女を見ながらふと不思議に思う。こんなに食べているのに彼女は相変わらず細いままだった。ぼくはやはりこの生活を始めてからすこしふっくらしたように思う。あまり家の中から出ないし、スポーツに励むわけでもなく、食事や間食だけはしっかりとっているのだから太るのは当然かもしれない。中年にさしかかってきっと代謝も落ちているのだろう。

 しかし彼女は、当初と比べればすこしふっくらしてきたものの、同年代の女性と比べればやはり細かった。そもそも彼女はいくつなのだろう。まさか子供というわけでもないだろうけど、二十二、三といったところだろうか。言動の幼稚さが年齢の推測を困難にしていた。本当はもう少し上なのかもしれない。

「こんなこと聞くのは失礼だと思うんだけどさ」

 ぼくはかじりさしのマフィンを置いて、湯呑みを手に取った。

「君って、いくつなの?」

 彼女は小首を傾げてこちらを見る。口の周りにはお菓子の粉が付いている。

「なんさい?」

 彼女はすらりと長い人差し指を顔の近くで掲げた。

「いっさい?」

 いいえ、と彼女は首を振る。それからおもむろに立ち上がったかと思うと、メモ帳とボールペンを取り出し、何か書き出した。棒と、丸がたくさん。何かの暗号化と思ったけど、ぼくにはわからなかった。ぼくが怪訝そうにしていると、彼女はふっと笑って、書いたものをちぎり取ってクシャクシャと丸めてしまった。それからぐるぐるした渦の中に顔のようなものを描いたり、たくさんの丸が重なり合った絵を描いたりして遊んでいたけど、彼女がふと紙から顔を上げてぼくを見た。

「どうしたの?」

 彼女は寂しそうに微笑んで首を振る。こういうとき、喋れないことがとてももどかしく感じる。彼女に声が出せたら、日本語がしゃべれたら、もっとぼくが彼女にできることもたくさんあるだろうに。いつもぼくは彼女が本当は何を望んでいるのかわからないまま、曖昧に物事を終わらせてしまう。

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