第55話 さようなら、こんにちは
「もしもし」
画面を操り電話をかけた先は京子だった。
「今ちょっと話せる?」
子供を保育園へ迎えに行く途中の車内だと言う。適当な場所を見つけて車を停めるまで折り返しを待てと言われた。ぼくは待つ。ハチ公のように。
しばらく待っていると、携帯端末が振動し始めた。京子からの呼び出しだ。
「もしもし」
「あ、ごめんごめん、で、何の用だっけ」
京子のいつもと変わらない声に、心臓が強張る。
「その後、どうよ、子供は大丈夫だった?」
「あー、うん、全然元気よ。びっくりしたけど、ごめんね、なんかせっかく楽しく遊んでたのに」
「いや、お前が謝ることないだろ」
「……」
「…」
「今日はちょっと、話があって」
声の頭がどうしても震えた。
「どうした?」
京子の声はいつになく優しい。思えば幼少期から今まで、彼女のこうした飴と鞭とに翻弄され続けてきた。
「今、時間、いいかな」
「おう」
「えっと、その、」
背筋を冷や汗が伝う。
「おれたちって、付き合いも長いよね、幼稚園の頃からだし」
「ほんとね、いつの間にかもうすぐ三十路だ」
「京子にはもう子供もいるし、時間の経つのって、ほんと早い」
「だね」
会話が苦手だ。いつも表面の輪郭を撫でるだけで、本題に切り込む前に途切れてしまう。間合いを測る、測っているつもりが、たぶん距離が遠すぎて、相手に伝わらないのだろう。悲しくなる。十代の頃に腹を割って人と話したりしてこなかったことのツケだ。
「好きだったんだ」
あまりの息苦しさに言葉が漏れた。
「ずっと、京子のこと、好きだったんだ」
マイクの向こうで京子が息を呑むのが聞こえる。
沈黙。スピーカーからなにも聞こえない。あまりの緊張に、手にしている端末を叩き割りたい衝動に駆られた。
「知ってた、よ」
京子の声が鼓膜に張り付いて何度も響く。
「え」
ぼくの意思とは関係なく気道の奥から空気が漏れて、音になった。
「ごめん、知ってた」
「いや……、そう」
「私もね、好きだったの」
「は?」
今度は明確な意志の力によって、声帯が震えた。
「中学生の頃はね、よく、あんたの家のそば、ぶらぶらしてた」
偶然会えたらいいなって。ただあんたの顔が見たかったの。電話の向こうで京子が笑った、気がした。
「馬鹿みたいでしょ」
「いや、」
違う、馬鹿じゃないよ、馬鹿なのはおれなんだよ、と言いたかったのに声にならない。声にならないことは伝わらない。喋らないとわからないでしょ、幼稚園のときに担任の嶋先生から言われた言葉を思い出す。
「ふ、ふふふっ、」
スピーカーを通して音が割れる。機械の向こうで京子が笑っている。
「いやだね、中学生って、じゅんじょーで」
彼女が言うので、ぼくの口からも乾いた笑いが漏れた。
「幸せに、なってよ」
ほとんど泣きそうになりながらそう言うのがやっとだった。
「わかってる。っていうか、航平こそ、ちゃんと幸せになりなさい」
京子の声はもう笑っていなかった。ぼくを叱るように、まるで幼稚園児のときと同じように。ぼくの頭蓋に響き渡る声でそう言うのだった。
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