第44話 走る影
何をする予定かと尋ねたら、何もする予定はないと京子に言われた。
「ピクニックって、そういうものでしょ」
確かに、そう言われてみれば。そこでぼくも黙りこむ。
砂浜近くの岩場では、ようちゃんがヤドカリを見つけてたじろいでいる。ぼくはシートの上に腰を下ろした。砂の上には木の破片やら貝殻が無造作に転がっている。遠くで誰かが犬を散歩させていた。のどかな景色だ。今日は波もそんなに高くない。
海は嫌いだ。だけど、落ち着く。波の音が絶え間なく響いていて、心地いい。
「まこちゃん見てみて」
ようちゃんは本当は葉月というらしい。リュックのネームプレートそう書いてあった。彼女はうちの女性のことをまこちゃんと呼ぶことに決めたようだ。幼児というのは本当に自由で羨ましい。そう思いながら眺めていたら、吉澤が京子に促されて、ぼくの隣に座った。
「こ、この間はごめんね、私ばっかり喋っちゃって」
「いやいや、とんでもない。俺無口だから、助かったよ」
ぼくが言うと吉澤が悲しそうに笑う。京子のそばでは饒舌になる自分の姿を思い出して、また吉澤に嘘をついてしまったことに気づいた。いや、違うんだ、ぼくは本当は無口で陰気な、つまらないやつなんだよ。そう言おうとしたけど、声にならない。吉澤は持っていたバッグをシートにおいて立ち上がり、中腰になってぼくを見下ろした。
「鬼ごっこしてるね、私も混じって来ようかな」
ミュールを脱ぎ捨てて、裸足で砂浜を駆け出した彼女の後ろ姿をぼんやりと見送る。
波打ち際をじぐざぐとようちゃんが逃げる。その後ろを大人の女性が二人追いかけている。まるで映画のワンシーンみたいだ。ぼーっと走り回る三人を見ていると、ぼくの頭上に衝撃が走った。
「いてっ」
京子のげんこつだ。
「なんだよ、急に」
「急にじゃない」
なぜか彼女は不機嫌そうだった。
「もうちょっと沙穂のこと見てあげてよ」
「なんでお前がそんなムキになんの?」
京子の不機嫌が空気を通してぼくにも感染する。
「あの子小学生の頃からあんたが好きだったの」
そんなことを言ったら俺だって、と言葉を投げつけそうになったが、こらえた。待つものは報われるべきだ、と思っているわけではなかったけど、人生というのは不公平なものだと思う。幼馴染が結ばれるなんて物語の中だけの話だ。
京子に吉澤とのことをつつかれるたび胸が痛む。かといってもうどうにもならないことは自分にもわかっていた。今の京子は幸せそうで、いい母親の顔をしている。彼女はもう、ぼくの焦がれた彼女とは別人なのだ。そう自分に言い聞かせるたび、吉澤のぼくへの思いを疎ましく感じる。見当違いもいいところなのは自分でもわかっていた。もしぼくが嫉妬をするなら、対象は京子の旦那であってしかるべきで、吉澤にはなんの咎もないのだ。
でも、しかし。ぼくの倫理観が嫉妬の矛先をあらぬ方向に捩じ曲げる。ぼくは自分が人のものを欲しがる不届き者でないことを証明するために、吉澤のことを疎んでいるのかもしれない。
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