第28話 渦

「良い匂いじゃない」

 母がやっと立ち上がって、上着を脱いだ。

「そ、そう?」

「あとは私やろうか」

「…、ごめん、頼む」

 冷静になってみれば、ぼくのレパートリーなんて、卵焼き、うどん、鍋、野菜炒めくらいだった。こんなんでいきなり和食の献立を立てようとしたのがそもそもの間違いだろう。完全に着地点を見失っていたことが恥ずかしかった。

「味噌汁、味どう?」

「悪くないわよ、いける」

 母が小皿に受けた味噌汁をすすりながらうなずく。ぼくはホッとして母のそばを離れた。

 トントントントン、リズミカルな包丁さばきは聞いていて安心できる。さっきまでぼくのやっていたことが、幼稚園児のママゴトと同レベルのような気がして、いたたまれない。ぼくはテーブルの上を拭きながら、自分がいかに役に立たない人間か思い知った。

 台所の母の背中が幼かった頃の記憶と重なる。安心感と、押し寄せる不安とが渦になってぼくの心の中心を占めた。言葉にできない不安。体ばかり大きくなった自分が、ただの木偶の坊みたいに思えて辛い。温かい湯気に醤油や出汁の匂い。胸に迫ってくる。

「母さん」

 背中に呼びかける。母が振り返る。言葉が続かない。

 実際、ぼくは自分が何を不安がっているのかよくわかっていなかった。

 安心したい、心を安らげたい。そんなことばかり考えている。

「もうすぐできるから、待っててね」

 そうじゃなくて、ぼくが聞きたいのはそういうことじゃなくて。

 だったら一体、どんなことばを待ってたっていうんだろう。

 考えてみたけどわからなかった。ただ胸の中にがらんとした空洞が広がっている。その奥から時折冷たい風が吹き付けてきて、いつもぼくをたまらなくさせる。

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