8章 嵐の前の太平

1 平和な日々

「母さんに、里心がついてさ」


 アシュリーが言った。

 十二月も半ばになり、いつ雪が降ってもおかしくない寒さだった。

 まあ、山の上はすでに埋もれているが。


「じゃあ、冬休みは、ほとんどアメリカで過ごすんだ」

「うん。リュカは渋ってるけど、私は悪くないと思ってる」


 冬の千草小で一番暖かい場所、保健室。ベッドには、四時間目の体育で貧血を起こしたゆいが眠っている。

 昼休み、様子を見に行こうとした私に、なぜかアシュリーもついてきていた。


「ご馳走さマンドリルー」


 忙しかったのか、遅い給食を食べ終えた石山いしやま先生が手を合わせた。


「…………」

「…………」


 私たち二人は沈黙した。

 アシュリーは精神年齢が高く、私は実年齢が高い。つまり二人とも、駄洒落にはついていけないということだ。

 処理不能な項目。

 その上、私の頭の中では、ついつい思い描いてしまった赤や青の派手な色の顔を持つモンキーが、座ってくつろぎ始めていた。

 ……出ていけ。


 石山先生は、流れる空気にはびくともせず、今日のおやつを取り出す。


「食べる?」

「…………いただきます」


 顔を見合わせ受け取ったのは、クルミ餅。

 どうやら和菓子派らしい。


「……で、さ……」


 求肥ぎゅうひのほのかな甘さに浸っている石山先生から、ようやく目を離し、アシュリーは切り出した。


「その前に、家でプレクリスマスをやろうと思って。来てくれないかな」

「プレ、クリスマス?」

「うるさいんだよ、リュカが。ねいを連れてこないと、アメリカに行かないって。言い出したら聞かないからな。あんたのピアノが聴きたいんだってさ。家にピアノあるし……私も聴きたいからさ。どう?」


 アシュリー自身は、リュカと違ってあまり自分の要求をしない。

 それが「聴きたい」って言っているのだ。断る訳にはいくまい。


「うん、行くよ。あの……結も一緒にいいかな」


 私は、結の寝顔を見た。

 結はいい子だ。できれば、アシュリーとリュカにも結を認めてもらいたかった。

 人のことをこんな風に思うのも、初めてかもしれない。


 合唱祭の朝、結の叫び声は、隣のクラスまで響いたらしい。

 あとで事情を聞かれて、何があったのかは話してあった。


「ああ、いいよ。私も根性のあるやつは好きなんだ」


 アシュリーは、きれいな笑顔を見せた。




 宇田川うだがわ先生は、すっかり鳴りを潜めていた。

 こたえたようだ。

 何が堪えたかって言うと、一番は自分のクラスが惨憺さんたんたる結果に終わったこと。

 指揮も合唱もボロボロで、教師としてのプライドが傷ついたのだろう。


 それから、ぎんちゃんが釘を指したこと。

 無理強いした上、もしも何かあったら、問題は学校内だけでは済まないと……言い方は悪いけど、暗に脅した訳だ。

 銀ちゃんとしては、本当は腹に据えかねているけど、それを言うだけにとどめたということらしい。その方が、かえって抑止力になると言っていた。


 どんな風に釘を刺されたのかを想像して、宇田川先生が少しだけ気の毒になったが、しかし銀ちゃんの言う通りなのだろう。

 確かに効果はあった。当然「本当は弾けるのに、私を騙したのね」ってなると思っていたのに、何ひとつ文句を言われなかったから。

 今現在は、なるべく私とは関わらず、当たり障りなく、といった感じが続いている。


 クラスの様子もちょっと変わった。今までは先生側と中立が大体半分ずつだったけど、それぞれが四分の一ずつに、そして残りは……私につくようになった。

 そういうのは、苦手だ。派閥なんて面倒なものができたらどうしようと、一時は本気で心配した。

 しかし考えてみれば、私にその気がないのだから、取り越し苦労に他ならない。とりあえず放っておいて、変な感じになったときは、どうにかして逃げている。


 でもまあ、多分、大丈夫だろう。大勢で遊ぶときなんて細かいことは関係なくなるみたいだし、私もそういうときはみんなに混じって遊んでいる。

 最近の流行はキックベース。大きいボールを使って、打者がバットで打つ代わりに蹴って野球をするゲームだ。


 ピアノを弾くようになってから、気のせいか前よりも体が軽い。全部ホームランにできそうな気がするんだけど、やってみたくなるんだけど……できてしまったらマズいので抑えている。

 それに、ごくまれにだけど結が貧血を起こすことがあるので、外で遊ぶときはそっちを気にしていた。

 ちょっとだけ、血が薄いらしい。


「五年生になったら、飼育委員になる?」

「え? うーん」


 ある日の放課後、飼育小屋の前でクラスの子に聞かれた。

 小屋は半分に区切られ、鶏五羽とウサギ六匹が飼われている。その全部が、興味深げに私の前に集まってきていた。

 意思疎通ができるかどうか試してみたけど、やっぱり何を考えているか分からない。


 生き物が、私を普通の人間と違うと感じることは知っている。

 しかし、なぜ人に飼われている動物だけが寄ってくるのかと言えば、危険に対するセンサーが鈍っているからだ。

 気づかないらしい。上空で回るビーに。

 ビーの気持ちは焼きもち半分、食欲半分。でも、絶対に下りてくるなと頭で伝えてあるので、大丈夫。

 ……多分。


 ふと気づくと、結が私の目をじっと見ていた。


「何かついてる?」

「あっ、ううん、何でもない」


 最近になって気づいたけど、結が私をこうやって見ていることは結構、多い。

 何でなんだろう?

 理由を聞いても、答えてはくれない。


「変人だと思ってるのよ」

「えっ! 違うよ!」

「環、口悪い」


 環の言葉に、結がびっくりして否定。私は呆れた。


「じゃあ、恋してるのね」

「えっ! ち、違――」

「環……下世話」


 上原環うえはらたまきとはあれ以来、仲良くなった。

 口は悪いしツンデレだけど、まっすぐで割といいやつだ。私とは馬が合う。環を含めた、同じ方向の何人かで下校することも多くなった。


「何よ、下世話って! 言ってみただけじゃない! もうっ、帰るわよ! うちは今日、ビーフシチューなんだから。お腹が空いたのよ!」

「はいはい、帰りましょ。結ん家は晩ご飯、何?」

「うちは、手巻き寿司って言ってたかな」

「いいねー、手巻き寿司」

「うちのビーフシチューの方が、美味しいんだからね! 寒いときは、あったかいものの方がいいのよ」

「はいはい、分かったよ」

「分かってないでしょ!」

「分かってるって」


 みんなで校門へと歩いていく。

 話題は今日の晩ご飯。家庭によって、料理は様々だ。毎日お鍋だとぼやく子もいれば、カレーの残りでカレーうどんだと笑っている子もいる。何が出るか分からない子たちは、食べたい料理を上げていく。

 うちはどうなんだろう。十岐ときは今日、何を作ってくれるのかな。

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