8 里 -母の家族

「もう分かっているだろう、寧。この二人は、里の長とその息子。お前の祖父と伯父だ」


 二人の視線が、私ひとりに注がれる。

 語りかけるような目だった。


 胸が、締め付けられた。


 自分が一体、何を失って生きてきたのか、気づいてしまった。

 互いに、溢れるくらいの強い想いを抱えているのが分かるのに、積み重ねた時間がない私たちには、それを交わすことができない。一緒に暮らしている普通の家族のように、根底に通じ合えるものがない。


 これまでの、長い、長い空白が生み出した、壁のような隔たり。

 はっきりと言葉にしなければ、きっと何も伝わらないのに、強く思えば思うほど、それがどんなに難しいものだったかを思い知ることになった。


「私……知らなかったんです…………。ずっと……知らないまま生きてきたから……それで……」


 ぎこちない私の言葉に、口を挟む者はいない。


「おばばに聞いて知ったあとも、いろいろあって……。自分のことで精一杯だったから、考えないようにしてて、だから……行かなくてもいいって。どこかに母の故郷があって、血の繋がった人がいるのが分かっただけでいいって、思い込もうとしました。もし…………受け入れてもらえなかったらって、思うと……怖かった……」


 私は、自分の思いの丈を搾り出した。


「本当は、ずっと……。私、会えて……嬉しいです」

「勿体ないお言葉……!」


 二人は畳に手をつき、深々と頭を下げる。


「あの、困ります! 私なんかに……」


 さっきまでは、十岐のついでに丁寧な応対をされていると思っていた。

 でもこれは、明らかに私に対して頭を下げている。

 やめて欲しくて、腰を浮かそうとした。


「いいえ。寧様はいずれ、あまね様となられるお方。どうか、私共にお気遣いをされませぬよう。それに、寧様が里と離れておられたのは、全て私共の不徳の致すところなのでございます。そのようにお心を痛めておいでになったとは、お詫びのしようもございません」


 さらに低く、畳につけられた額。

 どうしてか、自分の体が動かない。

 一段高いこの場所から下りたいのに、できない。

 この部屋のどこにも、身の置き所がなくなっていく感覚。


「そんな……お…………おじいさん、本当にやめてください」

「寧様。どうか、私のことは長、横に居ります倅は櫂とお呼びください。失った時を埋めることはできないかもしれませんが、私共がお役に立てることがあれば、これからは何なりとお申し付けくださいますようお願い申し上げます」


 長は私に、さらに制するように言った。


 呆然となった。

 十岐が言っていた「思っているようなものじゃない」とは、このことだった。

 空白の時間なんか、問題じゃなかった。

 二人は最初から、一線を画していた。

 私を、いずれ――――あまねの役を負う者として。


 ことさらに、感動の対面を期待した訳ではない。特別、可愛がってもらおうと思っていた訳でもない。

 私はただ、普通の家族のように、いつか、お互いの存在を自然に感じられるようになれればいいと、それだけ――

 たった、それだけを――――


「長よ、急には無理だろう。里ではゆるがせにできないことでも、寧には馴染みがないんだよ。せめて身内だけのときは、好きなように呼ばせてやっておくれ」

「失礼致します。長老をお連れしました」


 十岐が取り成した直後、外から声がかかった。

 襖が開き入ってきたのは、体を両側から二人の若い女性に支えられた、老人。


「長老、無理をしなさんな」

「いや、十岐様。居ても立ってもおられませなんだ。お見苦しいのはご勘弁くださいませ」


 老人は、支えられながら何とか長の横に座り、用意された脇息にもたれる。


「あなた様が、寧様…………。もはや、お会いするのは叶わぬことかと思うておりましたのに、こんなに嬉しいことがまだこの世にあろうとは……長生きも、辛いことばかりではございませぬなあ」


 痩せて小さな体。細めた目は、慈しむように私を見ている。

 この人が、私の――

 いや……


「私も、嬉しい……です。……長老に、お会いできて」

「寧様。わしは、ひいおじいちゃんと呼んで頂きとうございます」

「えっ」


 見開いた目に映る、長老の笑顔。


「長老! それはしかし――」

「何じゃ、かい。あまね様である十岐様のお気持ちに添うことこそ、我らの務めぞ。忘れたか。間違うでない、しきたりはそのためのもの。ならば十岐様の仰せの通り、寧様の望まれる通りにするのに、何の問題があろうか。それともお前は、おじさんと呼ばれるのは嫌とでも申すか」


 老いて不自由な体に似合わないほど、その目には力があった。

 一呼吸おいて、長が頷いた。


「分かりました、父上。そう致します」


「おじいちゃん」の笑顔は、柔らかだった。

「櫂おじさん」は、戸惑いつつもはにかんだ。


 二人の笑顔が、見えない壁を少しでも小さくするものなのか。

 私は……判断ができなかった。


「長老、もういいだろう。心配で起きてきたんだろうが、大丈夫だよ。ゆっくり休みな。あとで寧を部屋に連れて行くとしよう」

「それは、嬉しいお言葉。甘えさせていただきます。寧様、ごゆっくりなさって下され」

「あ、はい、また……」


 支えられながら出て行く長老を見送った。


 両側の女性が誰だったのか十岐に聞くと、奉公している女中だと教えられた。

 今時、女中のいる家があるなんて信じられなかった。お手伝いさんだって、実際には見たことすらない。

 しかも二人だけじゃなく全部で五人いて、玄関で長と櫂伯父さんの後ろに並んで私たちを出迎えた女性は、全て女中だった。

 また、自分だけが場違いな気持ちでいっぱいになる。


「さて、まずはどうしたいんだい? お前の好きにするといい。聞きたいことや見たいもの、知りたいことがたくさんあるだろう。何でも言ってみな」


 沈みかけた気持ちを察したような、十岐の言葉だった。

 そうだ。ある。いっぱい、あった。

 まず、最初は――


「あの……母の部屋はありますか? あるなら、見てみたいです」


 すると、櫂おじさんが顔を曇らせた。


「申し訳ありません……。かつての凪子の部屋は、今は里を出て大学に通っている、息子のものとなっております。息子は寧様にお会いするために今晩、帰って参りますが……改めてお詫びをさせますので」

「いえ、そんな! 仕方ないです! あの、えっと、じゃあ、里の中を見たいです! いろいろ見て回っていいですか?」


 慌てて話を変えた。

 お詫びなんてそんなこと、してもらいたくない。それに、里の中を見るのだって、間違いなく望んでいたことだったのだ。


「そうだね、行っておいで。長に案内を頼むとしよう」

「え、おばばは行かないの……?」

「わしは、長老と話がある。ゆっくり見てくるといい。ああ、そうだ。これを持ってお行き」

「何これ……目、悪くないけど」

「伊達さ。入用になったら掛けな」


 ポケットに突っ込まれた眼鏡の意味も分からず、長と二人だけという不安と緊張を抱えて、外に出ることとなった。

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