6 屋上にて

 学校が終わると、今日も素早く教室を出て下駄箱に向かい、上履きからスニーカーに履き替え校舎を出た。

 この数日の間にも成長したビーが、私が家にいない間に巣立つんじゃないかと、一日中そのことばかりが気になっていた。


「?」


 校門の手前まで来たとき、ふと何かが気になって立ち止まった。自分でも理由が分からないまま、振り返って校舎を仰ぎ、屋上の人影を捉える。


「あ……王子」


 隣のクラスの担任、槙田阿尊先生が、小さく手を振っていた。

 多くの生徒はすでに下校し、残って遊んでいる子どもたちも、校舎の反対側の校庭だ。この前庭を見回しても、周りには誰もいない。

 別に、呼ばれた訳ではない。そのまま帰ってもよかった。

 でも、私の足は屋上へと向かっていた。


 屋上は、普段は鍵がかかっていて入れない。開放するのは、昼休みと授業で使うとき。それと、植物の世話をするときだけ。少しでも夏の暑さを和らげるため、屋上緑化が試みられているのだ。芝や苔が生えそろい、なかなか心地いい空間になっていた。


「やー、来たね」


 鉄製の扉を開けると、丁度正面の柵の前に槙田先生はいた。手すりに寄りかかって、顔をこちらに向けている。


「あの、この間はすみませんでした」


 数歩手前まで歩み寄って、俯いたまま謝った。

 槙田先生との初対面は、ひどいものだったと思う。ぶつかった上、不躾に穴の空くほど見続けた挙句、宇田川先生の怒りを買ったのも私のとばっちりだったのだ。本当なら、もっと早くに謝っておくべきことだった。


「えっと、何のことだっけ?」

「え?」


 冗談かと思ったら、本当に忘れているらしかった。

 もしかして、強くぶつかった衝撃で頭に何らかの影響が……?

 そんなことを考えながら、説明してもう一度謝る。


「ああ、そんなこともあったね。律儀だなー、寧ちゃんは。気にしなくていいよー。僕の体はこう見えて丈夫だし、宇田川先生は僕のこと嫌いだから、君のせいじゃないよ」

「はあ、そうなんですか」


 最初のときも感じたけど、どうもつかみ所のない人のようだ。ふわふわしている。

 この美しさで、この言動。

 本当に地に足が着いているのか、疑問になってきた。妖怪がこの世に存在するなら、次は天使が出てきてもおかしくはないんじゃないだろうか?

 目を凝らしたら、背中から羽でも見えるかもしれない。十岐の周りがオーラみたいに見えるように――


「それそれ!」


 突然、槙田先生が笑い出した。

 半分、妄想の世界にいた私は、びっくりして心臓が止まりそうになる。


「寧ちゃんの、その目が面白くてねー。あのときも、君の目の奥はクルクルと動いて、不思議な輝きだったんだ。何を考えてるんだろうって思ったら笑えてきて、ごめん、びっくりしたよね。それにしても、きれいな目だねー」


 きれいな人から、きれいな目だなんて言われて、ドギマギした。


「僕は、自分の容姿が嫌いなんだ」


 私の考えを読んだようにそう言うと、槙田先生は笑みを浮かべたまま前庭を見下ろす。


「どうしてですか?」


 そんなにきれいなのに……


「僕の見た目は、他の人とは違うみたいだねー。自分では分からないんだけど。よく嫌な目に会うんだよ。危ないこともたくさんあったし、それに、宇田川先生みたいに毛嫌いされたりとかもよくあるんだ。何でだろうねー」

「危ないことって?」


 聞き流せずに、思わず口から出てしまっていた。


「うーん、誘拐とかね。子どものときだけじゃなくて、大人になってからも何回もあったんだよ。あ、僕が大きくなってからのは全部、未遂だよー。危ない目にたくさん会ったら、危ない人はひと目でわかるようになったからね。小学校の先生になったのも、大人の目よりも子どもの純粋な目に触れていたかったからなんだー」


 ふわふわとしたような人の話は、ふわふわとしか聞けないんだなと、ぼんやり思った。誘拐なんて物騒な言葉も、槙田先生の口から出ると大して問題がないように聞こえる。


「ふふっ、やっぱり。僕が変なことを言っても大丈夫だ。最初から安心できるのは、寧ちゃんで二人目だよ」

「二人目?」

「そう。でも良かったよー。あのときはちょっと辛そうだったけど、最近、何だか嬉しそうだから。良いことがあったんでしょ? スキップしそうな感じで、いつも帰ってるもんね」


 それで思い出した。


「そうだ、帰らないと! 先生、すみません、失礼します」

「うん、気をつけてねー」


 慌てて帰る途中、ビーのことを思いながらも、「スキップしそうな感じ」って、私は一体どんな風に見えているんだろうと気になってしまった。

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