9 男の名
「久しぶりだなー、寧ちゃんとここで会うの」
「あー、
放課後の屋上で、私は芝生に大の字になっていた。
あの事件から、数日が経つ。
「どうしたの? ぼーっとしてるね」
「んー、何か忘れてるような、見落としてるような……大事なことのような気がするんだけど、分からないんだよね」
もやもやしていた。
芝生を転がってみても、それが何なのかは出てこない。
「僕、これからそこに水を撒くんだけど、一緒に水浴びする? そしたら分かるかも」
「…………。
「うん。もう、水浴びするには寒いよねー」
阿尊くんは、用具庫から出してきたホースで放水し始める。
「アシュリーとは、ちゃんと話したの?」
ふいの質問の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「ああ、うん。リュカのせいでも、ましてやアシュリーのせいでもないって、何度もちゃんとそう言ったよ。実際、違うし」
事件を知らない阿尊くんには、こんな風に私が頭を悩ませていれば、クラスのことが原因と映ったのだろう。
確かに、あの日以降も相変わらず上手くいっていない。
そしてアシュリーは、その発端が安易にリュカと入れ替わった自分にあると思ったままだった。
「そっかー。アシュリーは責任感が強いからなー、まだ気にしてるみたい。僕からも言っておくね」
「うん。ありがとう」
少し沈んだ気持ちと、阿尊くんの手も煩わせる心苦しさを押し殺し、笑顔で言った。
双子たちには、本当に悪いことをしたと思う。決して二人のせいではないのに。
根本的な解決をしなければ、特にアシュリーの負い目は消えないのかもしれない。
阿尊くんは、放水を止めた。
「寧ちゃん。子どもはね、もっと好きにしていいよ」
「え……」
いつにない真顔だった。
その表情が、あまりにも澄んできれいで、私の笑顔が剥がされていく。
「子どもなんか……ちっとも好きにできない」
言葉が出て行った。
体が小さく、力も弱い。車の運転もできない。やさぐれても酒も飲めない。
大人だったときのことを考えたら、子どもなんて不自由でしょうがない。
きっと、相手が阿尊くんだから、言えた。
「うん……。でも、自分から小さくならなくてもいいんじゃないかなー」
にっこりと、阿尊くんは笑った。
もしかして、今、私、諭されているのか……?
「そう……なのかも、ね」
変な感じだった。まともなことを言うと変だなんて、阿尊くんは何て変なんだろうと、そう思ったらちょっとだけ笑えた。
「あ、そろそろだ。寧ちゃん、おいで」
阿尊くんと同じく手すりに寄る。
と、ほどなくして校長が出てきた。
「今日は僕が電波を飛ばそう。そうだなー。うん、キューピッドが、恋の矢を放つイメージでいこうかな」
恋の矢って……と、突っ込みたくなるのを我慢した。すでに阿尊くんは集中して、歩いていく校長をじっと見つめていたから。
しかし、校長は振り返らなかった。
「あれ? おかしいな。今までこんなことなかったのに」
まさか、傷のせいで……
阿尊くんは、身を乗り出した。
「あー、行っちゃうよ。あーもー、気づかないなんて、らしくないな。
ドックンっ……!
私の心臓が、大きく波打った。
「ああっ? てめっ! その呼び方、やめろって言っただろーがっ!」
校長が振り向き叫んでいる姿を目に捉えながら、呟く。
「今……何て……」
「え? 今? 何って、銀ちゃんのこと?」
「……銀……ちゃん……?」
空気みたいに微かな声が、知らず私の口から漏れた。
その名前を、知っている――――――
――――――私は母の膝の上に座り、その笑顔を見上げている。
『銀ちゃんって言ってね。年下の元気な男の子。よく遊んだのよ。ううん、遊んでくれたのね。お母さんは体が弱かったから、他の子たちには足手まといだったの。銀ちゃんだけが、ずっと私に合わせてくれた。優しい子だった。今、どうしてるかな』――――――
――――――父に手を引かれて走るその行く手に、誰かが急に現れる。
『こっちです! ここに隠れてください! 俺が囮になります』
『どうしてだ! 君は、寧を奪おうとしていたんじゃないのか!? どうして逃がしてくれるんだ!』
『俺はただ、寧様の幸せを…………
『もしかして君は、凪子のことを……』――――――
――――――運転席の窓にしがみつき、その人は必死で父に言っている。
『戻ってください! ここにいてはダメだ。寧様は、この地では生きられないんです。関東に戻ってくれ、今すぐ……頼む、言うことを聞いてくれ……! 頼むから、死なせないでくれ!』――――――
今よりずっと若く、
その面影は、今も残っている。
思い出した。
なぜ、学校に通い出す前から家に来たのか。どうして朧を知っていたのか。
何かと私に気を配り、校長なのに自らランドセルを持ってきて、ドライブにまで連れ出した理由。十岐の薬を持ち、その効果を知っていたことの意味。
全て、おかしかった。
あの人は――――里の人間。
そのことを、私に隠していた。
隠されて……私だけ、知らないことばかり…………
ふつふつと、心の奥底から沸き上がる。
「斎藤先生!」
「な……何だ?」
「家に来てください。今から」
「あ? いや、俺はこれからちょっと――」
「いいえ。斎藤先生とおばば、二人に聞くことがあります」
「…………分かった」
何かを覚悟したように、校長は言った。
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