7 脱出 -離脱

「ダッシュボードを……そこに、入ってる」

「分かった」


 急いで開ける。

 地図、何かの書類、筆記具、サングラス、懐中電灯、トランプ、グローブ、どこにあるんだと引っ掻き回した。

 すると、どこかで見たことのあるような、小さな容器が見つかった。


「ああ、それだ」


 私がふたを開けると、校長は自分で傷口に塗っていく。

 パックリ開いた傷から、私は目を背けた。しかし視線を落とした先にも、血だらけの自分の手。

 赤い色が、痛い。

 堪えきれず目を瞑りかけたとき、自分が握っているものに心を奪われた。


「これ、この薬、どうして先生が」


 自問するように呟く。

 特徴のある容器だった。茶色くて、漬物を漬けるかめの形。

 十岐が使っている以外には、見たことがない。


「先生、これ、おばばのじゃ……」


 今度は、校長の目を見て言った。


「ん、ああ…………ああ、そうだったな。あれだ、この間……おにぎりと一緒に、もらったんだよ。よく効くからってな」

「そう……だったんだ」


 でも、いつの間に渡したんだろう。あのときは――


「悪かったな……手も、服も、汚しちまって」

「あ……そんな………………ありがとうございました」


 助けてもらっておきながら、今までお礼も言っていなかったことに思い至り、私は自分を恥じた。


「いや、俺の落ち度だ」


 耳に届いた、抑えた声。

 口の端を歪めた校長の顔が、痛みのせいではなくもしも笑ったのだとしたら、それは皮肉な笑い方だった。


 私は、何か言おうと思った。落ち度なんてない。責任はない。とにかく、そんなようなことを何か、少しでも。

 結局、言うことはできなかった。

 私を見て、細められた校長の目。

 なぜそんな顔をするのか、その表情の裏にある感情は何か、読み取れなかった。


「ふう……。悪いが、後ろから着替えを取ってくれないか。さすがに、これじゃ目立つ」

「う、うん」


 ひとつため息をつくと、校長はいつもの感じに戻っていた。

 私は急いで頷き、後ろの席にごちゃごちゃと置かれたものの中から、トレーナーとタオルを見つけて引っ張る。


「あ、待ってください!」


 ワイシャツを脱ごうとする校長を止めて、今度は自分のランドセルからハサミを取り出した。


「どうせ、もう着られないと思うし……いいですか」

「気が利くな」


 笑ってシートにもたれたのを了解とみなし、テレビでやっていた救命救急の見よう見まねで、シャツを切っていく。

 視界から、外せない。どうやっても。

 傷が大きく口を開けて、目の前にある。

 肉が…………見える。


 繰り返し、何度も血が止まっていることを確認し、失血で死ぬことはないと必死に自分に言い聞かせる。十岐の薬は、魔法のように効くはずだからと。

 強く意識しなければ頭も体も動きを止めそうになる自分と、闘い続けた。


 切り終えると、今度はタオルにペットボトルの水を含ませ、胸やお腹に付いた血を拭き取っていく。

 血の下から現れたのは、鍛え上げられた、傷痕だらけの体だった。


 どうやったらこんなに……

 この人は一体、何者――――?


 浮かぶ疑問はしかし、声にすることはできなかった。

 校長が、私を見ている。

 そう、感じていた。

 動揺を押し殺し、作業を続ける私の少し俯いた顔には、斜め上の視線から隠すように、自分の髪がかかっていた。


「もう、それくらいで大丈夫だ。お前も手を拭いてくれ。あとは自分で着替える」

「あ……はい……」


 体を拭いている間も、着替えるときも、校長は結局、呻き声ひとつ上げなかった。

 少し動くだけでも痛いはずだ。普通じゃない。


「あ、もしもし。何かどうも、人が倒れてるみたいなんですけどね。白い……あれはバンかな、その前に。……え? 俺ですか? 関わるのは嫌なんで、匿名ってことで。それより、早く行った方がいいんじゃないかな。場所は――」


 通報の電話を一方的に切ると、エンジンをかけた。


「運転する気ですか!? そんな体で」

「すぐに警察が来る。面倒だから退散しないとな」


 軽い口調だった。


「じゃ、じゃあ、せめてもうちょっとしてから――」

「そろそろ帰らないと、着く頃には日が暮れちまう」

「そんな…………。なら……だったら、私が運転します!」


 校長は、ちょっと驚いた顔をした。


「私、運転できるから! だから――」

「今のお前の体じゃあ、この車の尺には合わねえよ。気持ちだけもらっとく。ありがとな」


 私の頭をポンポンと叩いて笑い、アクセルを踏んだ。


「っ……!」


 こんな体、何の役にも立たない…………!


 痛み止めは、眠くなるからと飲もうとしなかった。止まると動けなくなると言って、休憩すら一回もしなかった。

 この車はサスペンションが硬く、少しの段差でも振動が伝わりやすい。

 校長の体が前屈みになり、冷や汗がこめかみを伝うのが見えても、私にはどうすることもできなかった。

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