6 脱出 -拘束
驚いて振り返った。
五メートルほどの距離に、おじさんがひとり立っている。
全く気づかなかった。足音も聞こえなかったし、一体いつからそこにいたのか分からない。
背中に、冷たいものが走る。
「どうしたの? 学校は?」
「あ、いや」
ヤバい。疑われている。平日の昼間、子どもがひとりでこんなところにいることを不自然に思われたんだ。
「この辺の子かな?」
「い、いえ、違います。今日はその……っと、き、休校日で」
焦るほどに、私はしどろもどろになった。
「本当に? 親御さんと一緒なの?」
「え、あの、違いますけど、大丈夫ですから」
校長のことを言っていいのか分からない。
そもそも、ここに来たのは私の仮病に端を発している。
やましい。突っ込まれるのは困る。
「誰と来たの?」
「え……と、いや、だから、ホントに大丈夫で……」
ゆっくりと近づいてくる。
そこに感じた、違和感。
「誰もいないよね」
「い、います、向こうに。今、電話をかけてて」
この人……ちょっと様子がおかしいんじゃ……
私は、じりじりと下がった。
でも、後ろに逃げ道は、ない。
「心配しないで。おじさんが連れてってあげる」
「それ以上、来ない――」
言い終わる前に、一気に間合いを詰められた。
腕をつかまれ、強い力で引っ張られる。
「いたっ! は、放して!」
「こっち。こっちだよ。あの木の向こうに車があるから」
「何、言って……」
目が、血走っている。駐車場とは違う、右手の方向を指差していた。
茂みの向こうには、白いバンらしきもの。
「ここじゃダメだよ。車に乗ってあそこから落ちないと。事故じゃないと、保険金が下りないんだ。おいで、おじさんと一緒に行こう」
「!!」
この人、自殺志願者……! 私を、道連れにしようとしている!
全身を恐怖が駆け巡った。
逃げなきゃ。早く。
頭で思っても、体が言うことを聞かない。どんどん引きずられていく。
「何してる! その子を放せ!」
身をよじって振り向く。
五十メートルほど離れた駐車場の出口に、校長が立っていた。
おじさんの動きが止まった。目が据わり、無表情な顔からは血の気が引いている。
「せんっ……ぃっ……!」
私の腕を握る手に、さらに力がこもった。
もがけど、子どもの力では振り払うことができない。
「俺の連れだ。その子を放せ」
ゆっくりと少しだけ歩を進め、校長は静かに言った。
「放せ」
腕を握る手の力が緩んだ。
そう思った瞬間、おじさんは無言のまま私を抱え込んで走り出した。
バンはもう、すぐ側だった。
放り込まれたリアシートで、私は必死に体を起こす。
最初に捉えたものは、入り口間際で少し身を屈めるおじさんの肩越し、猛スピードで迫る校長の姿だった。
おじさんの手元で、何かがキラリと光る。
こちらを向いていた体が後ろに回転すると同時に、それは水平に弧を描き、残像を残して向こう側に消えた。
目の端に映ったのは、切っ先から飛び散る、雫。
全てが、スローモーションのようだった。
視界の左側に現れて消えたスーツの袖。
目の前の頭が、左に変に傾く。大きく右に薙いだ手から離れたサバイバルナイフのあとを追うように、地面に崩れ落ちていく背中。
校長の姿が、少しずつ見えてくる。
無事……だった……?
のろのろと、下を向く。
倒れたおじさんの体はピクリともせず、這いつくばったまま動かない。
「大丈夫か、寧」
のろのろと、顔を上げる。
視界に入った、校長の胸。
大きく裂けた傷と、赤い色。
目に、焼きついた。
「返事をしろ。大丈夫、なのか」
「血……」
白いシャツが、赤に染まる。見る間に、染まっていく。
「答えてくれ、寧」
「うん……」
止まらない。
「そうか。よかっ……た……」
どんどん、真っ赤に。
「うん……止めなきゃ……」
車から、外に出た。
足は地面に着いているはずなのに、その感覚がない。倒れている体を避けて踏み出すのが、ひどく難しいことのように感じる。
やっと校長の前に立つと、上着を脱いで、赤い胸に強く押し当てた。
「ぐっ……」
顔を歪める。
「血……こんなに……」
「ハハ……ちょっと
自嘲気味に笑うと、傷を押さえて血に濡れる私の指を、少しずつ引きはがしていく。
息が荒い。
「そんなに、深い傷じゃない。これくらいじゃ、死なない。大丈夫……ちょっと、貧血になるだけだ」
「でも……まだ血が……」
私は、呆然としていた。
「ああ、車に、薬がある」
「薬…………。病院に……救急車……。救急車…………そうだ、呼ばないと! 先生、携帯貸して!」
やっと我に返った。
何ですぐに、救急車を思いつかなかった!
「ダメだ」
焦ってポケットに伸ばした手を、つかまれた。
「っ……何で!」
「サボったのが、バレる」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ! 私のことなら、構わないから!」
「いいや、実は……俺が、サボってここにいるんだよ。俺は、バレるのはごめんだ。下手すりゃ、厳罰処分だ」
校長は、にやりと笑った。
いや、笑おうとしていた。
「そんな……」
本心で言っているのか。本当に、罰を受けるのか。
分からない。
私は……私は、一体どうしたら……
「大丈夫だ、薬を塗れば……血は、止まる。よく効く、薬なんだ」
「そんなにひどいのに、薬だけで血が止まる訳……」
しかし、校長は胸を押さえながら歩き出す。
この小さな体では、止めることも支えることもできず、ついていく他はなかった。
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