ジャスミンティー



この時期の空はジャスミンティーの香りがする。

そう言ったのは井口絢音あやねだった。


絢音はジャスミンティーばかり好んで飲んだ。部室にも茶葉を持ち込んでいた。誰が持ってきたのかとっくに分からなくなっている、少なくとも数年前から部室に置いてあるカセットコンロで湯を沸かし、ティーポットでジャスミンティーを淹れていた。カセットコンロが教師や風紀委員に見つかる気配はついぞなく、ボンベがからになれば誰かしらが買ってくる。この悪弊はいつまでも続くように思われた。

本当はそんなこと、ない。


私たちの日常はジャスミンティーのような位置で揺れている。間違いなく愛され、幸福を享受しながらも、もっと明るいところで緑茶や麦茶や烏龍茶が戯れているというだけで、熱心に不幸なふりをする。

世界に狭窄きょうさくを求める無様な渇望に気づかず。

それこそ、私たちが常から求めている程良い異質じゃないのか。

だからって、こんな自己否定、同情できねぇよ。


春の逢魔時おうまがときに空を見上げる。

ジャスミンティーが降ってこないかなと思ってる。

けど、濡れて染まりたくはない。

こんな自己愛、肯定できねぇよ。


 特別になりたい

 異質になりたい

 不幸になりたい


空に香りなんてするわけないって思いながら、絢音にジャスミンティーを淹れてやって、20円だけもらう。手元にある空き缶ふたつをデポジットに放り込めば、さらに20円手に入る。小銭入れを覗いて、計算が合っていることを確かめ、ひとり頷く。ジャスミンティーを美味しそうに飲む絢音を部室に残して、ペットボトルのコーラ・ゼロを買いに行く。ジャスミンティーなんて、飲んでらんないから。


 特別になりたい

 当たり前でいたい

 死にたくないから

 いっそ殺して

 綺麗な夜景が見れるところへ連れてって

 ジャスミンティーなんて真っ平御免


美味しくねえ飲み物も泥水もあるってわかれよ。

そんな自己愛、10円だって払えねぇよ。




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