第19話 熱
異性と部屋を共にしているとは言っても、バハルには仕事が山ほどある。ルチアも彼の休憩を妨げないように行動していたため、当初の予想とは大きく異なり実際にベッドを共にしたことは数えるほどしかない。
だからこそ、たまにお互いに眠ろうとした時間が重なるとルチアはどうしようもなく胸がざわめく。
「あ、あの。バハルさんが先に休んでください。僕はあとでで構わないので……」
大きいとは言いがたい寝台は、二人で寝るにはいささか窮屈だった。いつも通り遠慮がちに言うルチアに、いつもだったら放っておくはずのバハルがなぜか気だるげな表情を見せた。
「なにか不満か?」
「別に不満はありませんが。一緒に寝てれば、バハルさんも気が休まらないでしょう?」
「お前みたいなちっこい奴がいようといまいと、変わんねえよ」
ごろりと横になったバハルが手招きするように右手を差し出す。
(一体どうしたの……?)
普段ならルチアのことなど気にせず、自分の好きなように過ごしていたはずだ。こんな風に寝床に誘われたことなど、一度たりともない。
少女が戸惑う様子に気付いていないのか、バハルはぐいっとルチアの腕を引き寄せた。
「ひゃっ!」
情けない声を上げながら、ルチアは引きずられるように寝台に寝転がった。近い距離でバハルと目が合って心臓がうるさいほどに高鳴った。
「お前は本当に、エレーヌに似てるんだな」
その言葉に、なぜかルチアの心がズキリと痛む。
「……女と似ていると言われて喜んじゃダメでしょう」
不可思議な痛みを押し隠すようにルチアは目を伏せて呟く。その言葉にバハルは何も言わずに、ただポンと子どもをあやすように頭に手を置いた。
(バハルさんはやっぱりお姉ちゃんが好きなのね……。だから似ている私にも優しいのよ)
憧れの姉と似ていると言われて、以前ならきっと喜んでいたはずだった。けれど今は理由は分からないのに、無性に悲しかった。
「今日のバハルさんは、なんか変です」
「……うるせえ」
覇気のない声で呟くバハルの体におずおずと手を伸ばすと、いつもよりも温かなぬくもりに触れる。わずかに彼の顔が赤みを増していることに気付き、思わず額に手を伸ばす。
「バハルさん、熱があるじゃないですか!」
平常時より高い体温に驚いて思わず叫ぶが、バハルは手を振り払うかのように頭を振った。
「これくらい平気だ」
「どこが平気なんですか!?」
少しかすれた声を出すバハルの額に再び手を当てる。先日ルチアが熱を出したばかりだったが、どうやら今度はバハルが体調を崩したようだ。
「大人しく寝ててください。今、冷やすものを持ってきますから」
「ここにいろ」
寝台に俯せになりバハルは苦しそうに息を吐き出すが、つかんだ手を離そうとする気配もなくルチアは途方に暮れる。仕方なく彼の言うとおりに大人しく寝台に腰掛けてバハルの手を握ると、顔を横に向けた彼と視線が交錯した。
「熱があるときは人恋しくなりますもんね。子どもの頃、良くお姉ちゃんにこうやって側にいてもらっていました」
「……ガキ扱いする気か」
「だって、その通りじゃないですか」
バハルはそれ以上反論することはなく、吐息をもらして瞼を閉じた。
静かになった彼の肩まで毛布をかけ直し、端に腰掛けたままバハルを見おろした。
(バハルさんでも風邪を引くのね)
屈強な男とはいえ、冷える空気の中で過ごす時間が多ければ体調も悪くするのだろう。
くすりと笑うルチアの声が聞こえたのか、目を閉じたままバハルが小さな声で呟く。
「……なにが面白い」
「いいえ。ちゃんと寝てください」
体調が悪いと気も弱くなる。そんなとき、誰かに側にいて欲しいと思ってしまうのは誰だって一緒だ。
どれほどの期間、彼が奴隷として過ごしてきたのかルチアは知らない。けれどきっと、彼が寂しいときに誰かの温もりを感じることが出来なかった立場にいたことは分かる。
「おやすみなさい、バハルさん」
小さな寝息を立て始めたバハルの手をそっと離し、ルチアは静かに船長室を抜け出した。
「バハルが熱?」
自室で海図を読んでいたロジェに状態を伝えると、彼は驚いたように目を見開いた。
「珍しいこともあるな。あいつは体だけは頑丈なんだけど……明日は嵐か、止めて欲しいね」
苦笑しながら手に持った海図を丸め、床へ乱雑に放り投げた。
「このところ寒さも増してるしね。……しかし、良くあいつが誰かの気配を感じながら寝られるな」
「え? どういうことですか?」
「あいつ、昔は人の気配があると全く眠れなかったんだよ。図太くなったのか……それとも、君だからなのか」
面白がるように笑うロジェの台詞を頭の中で反芻する。つまり、バハルは本来であれば誰かと同室で寝るのは出来ないということなのか。けれどルチアは彼が海賊であると知る前から、サピエンの街でも夜を一緒に過ごしている。
「バハルさんのイビキがうるさくて、こちらが眠れなかったことならありますけど」
「それだけ気を許してるってことなんだろうね。……船長としては、いささか不用心すぎると僕は思うけれどね」
(まただ)
ロジェが自分を見る目や口調が、時折とても怖いときがあった。ルチアが気付いたときには元の穏やかなロジェに戻るが、ふとした瞬間に背筋が凍るような気持ちになる。そして彼自身、ルチアが怯えていることも気付いているはずだった。
「……前から思っていたんですけれど、この船の指揮は実質はロジェさんが取っているんですよね。けれど船長はバハルさん。なにか理由があるんですか?」
ロジェは航海士であり、副船長でもない。けれど実質の指揮は彼がとっていることはルチアにも見て取れた。
首をかしげるルチアに、ロジェは口元に笑みを浮かべた。
「だって船長なんて面倒だし」
「はい?」
「っていうのは、まあ半分冗談だけれど。たしかにこの船での指揮は僕がほとんどしている。けれどあいつには、人を惹きつける力がある。有象無象の輩が集まったとき重要なのは統率力だ。僕にはそれが足りない。元々クーデターの中心はバハルだし、必然だろう?」
バハルが人を惹きつけるというのは頷けた。自己中心的で粗野のように見せて、実は誰よりも情に厚い男。シャットやミアが心酔している姿を見れば一目瞭然だ。
「だから僕は危惧しているんだ。いざこの船に危険が迫ったとき、彼は君を見捨てて、仲間たちを一番に考えることができるのか――ってね」
「そ、れは……」
「この船には大勢の命が乗っている。君一人の命と大勢の仲間たちの命、これを天秤にかけたら僕は迷いなく後者を選ぶ。……けれど、バハルはきっと違う。もしかしたら前者をとるかもしれない。けれどあいつは、それを一生後悔し自分だけが背負おうとする」
はあ、とわざとらしく嘆息をついたロジェはテーブルの上に両肘をつき、顔の前で指をすり合わせた。
「だからあまり、君にはバハルと仲良くなって貰うと困るんだよね。あくまで僕らは契約関係だ。お金をもらった以上の働きはするし、元々僕たちもエレーヌのことは追っているから多少のことには目をつむるけど」
「……つまり報酬に見合わないことが起きれば、そこで終わりということですか」
「そういうこと」
これで話は終わりと言わんばかりにロジェは立ち上がり、ルチアを置いて部屋を出ようとする。
ルチアは慌てて振り返り、その背中に向かって口を開いた。
「ロジェさんにとってお荷物な存在かもしれません。けれど僕はあなたたちを信じると決めました」
ふつふつと煮えたぎるような感情が心の内からあふれてくる。それは純粋な怒りだった。
「いつか途切れてしまう縁かもしれませんが、バハルさんたちと信頼関係を作ることにたいしてまで文句を言われる筋合いはありません!」
「……そう」
嘲笑するロジェになおも言い募ろうとしたルチアだったが、慌ただしく開かれた扉に言葉を遮られる。
「ロジェ! ちょっと来――あれ、ルカ」
「シャット、どうした」
少年が目を瞬かせて予想外の存在を見やるが、自分の仕事を思い出したのかロジェに慌てて向き直った。
「ああ、もうすぐ流氷ゾーンに入るから皆が呼んで来いって」
「分かった、すぐ行くよ」
二人の姿が部屋からいなくなった瞬間、ルチアは緊張の糸が途切れたように肩を落とした。
額に生ぬるい感触を覚えてバハルはうっすらと目を開けた。不思議に思いながら右手でそれを掴むと、それはきつく水を絞った布だった。
横目で見やると、床に膝をつき両腕だけをベッドに乗せた状態で眠る少女の姿がある。その隣には海水をと、半ば溶けかけた氷の入った桶が置かれていた。
そこでようやく、自分が熱に浮かされ眠りについたことを思い出す。
「おいルカ」
彼の返答にルチアは応えることはない。濃紺の瞳は瞼に隠され、バハルを見ようとはしなかった。
窓を見ればすでに太陽は隠れ、辺り一帯に暗闇が訪れている。星の位置を確認すれば、自分がすでに半日近く眠っていたことが分かった。
「起きろ、ルカ」
細い肩を揺さぶるが、眠りの深い彼女が起きる気配は全くない。舌打ちして、バハルは彼女を蹴飛ばさないように静かにベッドから起き上がった。
冷たい床に座る少女の体を抱き上げゆっくりと寝台に寝かせ、邪魔そうな金色の前髪を払うとわずかに寝言を呟く。
思わず小さく笑い、バハルはそっと外へと出る。
「お頭、もう体調は大丈夫っすか!?」
まるで犬がじゃれるような勢いで、バハルの姿を見かけたシャットが飛びついてくる。
「ルカが、お頭の体調が悪いからって代わりに見張りをやるって言い張ってたんですよ。これから危険水域に入るから任せられないって、ロジェにすげなく却下されてましたけど」
「あいつが?」
寝息を立てて眠る、少女のあどけない姿を思い出す。そして彼女の提案が却下されている状況も安易に想像が出来て苦笑した。
「だからオレがお頭の当番代わったんっすよ」
褒めてくれと言わんばかりに満面に笑うシャットの頭を撫でてやると、少年は嬉しそうに飛び上がった。
「でもロジェ、かなりルカにきつく当たってる気がしません?」
「あいつは元々温厚そうに見えて性格悪いだろ。あんまり気にすんな」
「なんかいつもとも違う感じが。オレの気のせいかもしれないっすけど」
適当にはぐらかしたバハルだが、彼が必要以上にルチアに対して攻撃的な理由は見当がついていた。
しかし正直にシャットへ言うつもりもなく、少年の頭を軽く小突いた。
「ま、お前は仲良くしてやれよ」
「オレはかなり優しくやってると思うけどなあ。……っと、それどころじゃなかった。ロジェから、お頭を呼んで来いって言われてたっす」
「どうせ蹴飛ばしてでも起こせって言われたんだろ?」
シャットは否定せずに乾いた笑みを浮かべた。少年の額を再度小突いて、バハルはロジェのいるであろう甲板へと足を運ぶ。
「遅いよバハル」
バハルの姿を視界に入れた途端、ロジェに辛辣な声で名を呼ばれる。彼はすぐに視線を海へと戻し、背中越しにバハルを手招きした。
「君がいつになく熱なんか出すから、流氷なんかに出くわすんだよ」
「なんだそれ。とんだ言いがかりだな」
むちゃくちゃな理論に呆れながらも、バハルは青年の横に並び、すっと目を細めて海の向こうを見渡してから大声を張り上げる。
「
バハルの指示を受けて、船がわずかに右へ針路を変更していく。船の真横を巨大な流氷が流れていくのを確認し、再び正面へと目を移す。
夜の海は恐ろしい。それは海に出るものなら誰でも感じることだった。バハルは夜目が利くほうだったが、一瞬の迷いで命を落とすという不安は未だにある。それでも、一度港を離れた前へ向かう以外に道はない。
「なあロジェ。お前が心配していることにはならねえよ。俺は、絶対に仲間を裏切らない」
バハルの声は風に乗って友の耳へと届く。なにかを言いかけるようにロジェの唇がわずかに開かれ、けれど言葉にはせず再び引き締められた。
それを無視して、バハルはもう一度小さな声で語りかける。
「この船に乗っている奴ら、島のやつら全員……俺たちの仲間に誓ってやる。俺の第一の目的はコーネリアス家に復讐することだ。――二度と大事なものを奪われてたまるか」
燃えたぎるような情炎を宿した瞳が、ほの暗い海を睨み付けた。最後は吐き捨てるようなバハルの台詞を、ロジェはじっと黙って聞いていた。
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